29安閑天皇陵古墳
生活圏にありもっともよく目にする古墳です。
旧国道170号線沿いにあり、とてもわかりやすい遥拝所です。
古墳は高屋丘陵の北端に築かれた前方後円墳で、古市古墳群内の南側のグループのひとつです。墳丘長122m、後円部直径78m・高さ13m、前方部幅100m・高さ12.5mを測り、前方部が開き、わずかに後円部の方が高くなります。周濠は幅約15mで全周しますが、外堤については地形の変形が著しく、その規模は不明瞭です。さらに墳丘部分は、中世の高屋城の築造や陵墓改修に伴って、古墳本来の形態が大きく改変されています。特に、前方部の北隅が直角になりますが、これが本来の形態かどうかは確認されていません。出土する埴輪や須恵器の特徴、正倉院と同種のペルシャ製ガラス椀の年代観から古墳は6世紀前半頃に築かれたと考えられています。
ここも国道旧170号線沿いなのですが、細い参道なのであっという間に通り過ぎてしまいます。
30春日山田皇后陵古墳
安閑天皇の皇后で、仁賢天皇の皇女、春日山田皇女の御陵「古市高屋陵」として管理されている、高屋八幡山古墳です。安閑天皇陵古墳からは南に200mほどの近さにあります。現在、方形に残る墳丘は、付近の発掘調査で、もと前方後円墳だったということがわかっています。築造時期は安閑陵古墳より早く、6世紀初頭ころかと推定されます。墳丘長85m、後円部径50m、前方部幅60mほど、くびれ幅は約40mと見られています。明治八年、宮内省によってこの場所に治定されました。ただし、『日本書紀』には、春日山田皇女は安閑天皇の御陵に合葬されたことが記されていて、『延喜式』がどうして別に御陵を載せたのか疑問が残るところです。
峯塚公園と関電前の羽曳野丘陵への坂の途中、看板だけですが・・・
31寺山(善正寺跡)
羽曳野丘陵中腹・東面側にあった白鳳時代に建てられた寺院跡です。寺跡は、戦後まもなく始められた土採りによって現在は宅地となり、その痕跡は残っていません。調査によって、この寺院は 薬師寺式の伽藍配置をもつことがわかりました。発見された金堂の礎石には、「白瑪瑙」と称する白色大理石が使用され、二重基壇の存在とともに寺の独自性を示しています。独自性は、出土している瓦にも見ることができます。その瓦は、7世紀後半に製作された軒丸瓦で、大きな中房の周辺に幅広い八葉の単弁をもち、さらに花弁の先端が蕨手状に折り返して単弁の頭に接するのが特色です。出土している瓦から考えられる寺の創建は7世紀の中頃で、その後9世紀までは維持されていたと考えられます。