32野中古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳丘は長さ225メートル、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られています。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な中期大型古墳の様相をみせています。これらの陪塚群のうち、埋葬施設が発掘調査されたのが野中古墳です。
藤井寺市の南部、野中3丁目の住宅街の中に、小さな丘のような高まりがひっそりとあります。これが野中古墳です。周囲を民家に囲まれ、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。墳丘の形は今では大きく変形していますが、もとは一辺37メートルの方墳で、二段に築かれていました。また、幅約2メートルの濠がめぐっていたことも分かっています。造られたのは、今から1500年以上前のことです。1964年、大阪大学によって発掘調査が行われることになりました。当時の野中古墳について、調査を主導された北野耕平先生は、「はたして古墳であるかどうかの判断を下しかねるほど、著るしく荒廃した感を抱かせ、とくに南側の盛土が大きく削りとられて、墳丘としても主要な部分の大半を失っているような印象を与えるものがあった」と報告書に書かれています。ところが、通称「うらやぶ」と呼ばれていた小さな古墳は、この調査によって一躍人々の注目を集めることになるのです。調査では、甲や冑、刀や剣、鉄の矢じりといった武器類、鉄ていと呼ぶ鉄の地金、鍬や鋤などの農具類、錐やヤリガンナなどの工具類といった多様な鉄製品が出土しました。また、朝鮮半島南部にあった伽耶という地域の土器もまとまって出土しました。円筒埴輪列や墳丘斜面に石を葺いた葺石も確認されています。これらの中で、とくに鉄製の武器・武具類の圧倒的な多さが目を引きました。これは、一体どのような理由によるのでしょうか。北野先生は、野中古墳が大形の前方後円墳である墓山古墳の陪塚的位置にあることに注目されました。そして、野中古墳に葬られた人物は、生前、墓山古墳の被葬者に仕え、軍事的な仕事をつかさどっていたと推定されました。つまり、そのような人物が社会的地位を承認されることにより、野中古墳のような古墳に葬られることが可能になったと考えられたのです。1990年の藤井寺市教育委員会の調査では、濠の外側斜面から多量の滑石製模造品が見つかり、新たな知見を加えることになりました。発掘調査の喧騒から解放された野中古墳は、再び、往古の静寂を取り戻しました。
●2009年に大阪大学文学研究科内の資料収蔵室から古い8ミリフィルム2巻が見つかった。慎重にクリーニングし、内容のチェックを行った結果、文学部(当時)が1964年に行った藤井寺市野中古墳(現在国史跡・世界遺産暫定リスト掲載)の発掘調査を撮影したカラー映像であることが判明。このたび、デジタル化してインターネット上で一般公開する運びとなった。発掘調査のカラー映像としては府下では最古期のもの、全国的にもごく初期のもの。http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/nonaka/
何度か紹介した茶山グランドに建てられた新しい施設です。
33茶山遺跡
従来、当遺跡は古墳時代から奈良時代に盛行し、以後は衰退してしまう遺跡と考えられていました。しかし昭和60年(1985)の府教委や昭和63年(1989)以降の本市教育委員会の発掘調査の結果、12から16世紀にかけての多様な遺構や遺物が確認され、中世にも引き続き生活域であることがわかりました。特に、14世紀から16世紀の園池状遺構・井戸・集石土坑群などが見つかり、出土する遺物が瓦器椀をはじめ実用性の高い土器のみではなく、風炉(ふうろ)や花入れ・輸入陶磁器など趣向的なものが含まれるため、一般集落とは異なる様相が注目されています。これらは、高屋城より先行する時期のもので、羽曳野市の中世史を考える上で欠かせない遺跡であり、文献史料に表れる誉田城と関わりのあるものと考えられています。
誉田中学校も、その遺跡の上に建っています。