高野街道(96) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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高野街道(96)


ここまで来たら「丹生」つながりで「丹生都比売神社」をめざすしかないか・・・


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その途中・・・


榧の木神社かつらぎ町山崎

弘法大師が高野山を開祖しようとして九度山より山頂を目指していた折、山崎大日山の町石道の近くに地上に出ている大石があったそうです。この大石からご覧になられると荒れ果てていたので、持参した榧の木の実を播き、そこから採れる油を生計の糧とするように示されたようです。それ以来その油で大いに潤い、高野山奥の院燈籠堂に捧げ、聖徳太子の霊前を輝かしたそうです。時は移り、いつしか榧は伐採され、今は柑橘、柿等の果樹の木が山を覆うようになりましたが、高野山開祖1200年を控えて、報恩謝徳の気持ちを表すために山崎榧の木神社を創建されたそうです。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-かや2


■そのすぐ横に・・・千手千眼観世音堂もありました。



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-かや3


さあ、山に登り始めます。


狩場明神矢根研石

弘仁七年僧空海唐にての修行を了へ日本に帰国し、真言密教の根本道場を開く地を求めてたまたま大和宇智郡犬飼山辺りに来たりて一狩人に逢ひ、その連れし黒白の二匹の犬に導かれて高野山に達し、こゝにて真言宗の一大霊場をひらくことゝなるのであるが、この狩人こそ狩場明神の化身であったと云はれています。狩場明神は、現在のかつらぎ町大字宮本辺りを根據とされ、四方に遊猟し常にこの処にて矢の根を研ぎたりと云はれ、その跡がこの石であり、紀伊続風土記高野山の部に「八幡の森又は神社の森は教良寺村の南に在り内に狩場明神矢根研石と云あり方一尺許りにて矢の根を研ぎたるやうの跡あり」と記されておる。狩場明神は又の御名を高野御子神と申し、天野大社の主祭神丹生都比賣大神の御子であるとされており、従って此の地は天野高野を結ぶ由緒ある史跡である。昭和五十七年九月県道新設のため、現在地より西北五米の所より掘り出し、昭和五十九年一月現在地に移す。昔よりの云ひ傅へによれば婦人此の石に触れば安産の霊験ありと云う。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-かや4


だんだんと「高野山」が近づいてきた・・・という感じがします。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-かや5


■貧女の一燈お照の墓

高野山の奥の院に千年近くの間、光輝いている「貧女の一燈」と言われる燈籠があります。お照という少女が、自分の髪を売った金で養父母の菩提を弔うために献じた一燈です。お照はその後、ここに庵を結び養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えたと伝えられています。天和二年(1682年)妙春尼により供養塔が建てられ、貞亨五年(1688年)天野の郷供僧(さとぐそう)、淨意が女人の苦しみを救うために、代受苦の行を十年間勤め、ここに碑が建てられました。


・・・まことにみすぼらしい祠(お墓)ではありますが、大切に語り継ぎたいものです。