高野街道(97)
やがて街道は下り坂となり「天野の里」に入る。
■大念仏一結衆「宝篋印塔」
応永二十三年(1416)秋、大念仏衆が彼岸中日に建立したものである。以来、この上天野には大念仏が、下天野には六斎念仏が盛んになった。この石碑は鎌倉時代の貴重な様式を伝えている。
・・・そして、田園風景の中に「朱色」が映える。
この神社に来たかった最大の理由は・・・
朱色にに輝く反り橋(太鼓橋)、神社の方のお話によると、住吉大社と同じく淀君寄進と伝えられており、住吉大社にある反り橋と似ているのだそうです。
【参考】住吉反橋
通称で「太鼓橋」とも呼ばれる。橋の長さは約20m、幅は約5.8mの木造桁橋である。橋中央部の高さは4.4mで、中央部を頂点として半円状に反っている。最大傾斜は約48度となっている。地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、橋が大きく反っている構造になっていると考えられている。橋は川端康成の小説『反橋』(1948年発表)の舞台となった。橋の南東には、『反橋』の一節が刻まれた川端康成の文学碑が設置されている。「そりばし」ではなく「そりはし」が正しい名称である。橋については慶長年間(16世紀末~17世紀初頭)に最初に造営されたと伝えられている。造営者については、豊臣秀頼が造営したという説と、淀殿が造営したという説がある。架橋当時は住吉大社付近に海岸線があり、本殿と対岸の入り江を結ぶ目的で架橋された橋だとされている。現在は池の上に橋が架かっている形になっているが、この池は当時の入り江の名残だとされている。橋の基礎部分については創建当初のものをそのまま使用していると考えられている。その一方で、木製の橋桁や欄干は老朽化に伴って何度もかけ直され、直近の掛け替えは2009年におこなわれた。
・・・今年1月に「住吉大社」の太鼓橋を渡ってきたばかりです。
■丹生都比売神社/伊都郡かつらぎ町大字上天野
創建されたのは空海が高野山を開創した時期よりも古く、今から約1700年前のことと伝えられている。丹生都比売大神は天照大御神の妹神で神代に紀ノ川流域に降臨し、紀州、大和に農耕を広め今の天野の地に鎮座されたという。丹は朱砂の鉱石から採れる朱を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の地名と神社があるといわれている。丹生都比売大神はここに本拠を置く日本の朱砂を支配する一族の祀る女神とされている。高野御子大神は丹生都比売大神の子で密教の道場を求めていた弘法大師の前に現れ高野山へ導いたと伝えられている。弘法大師は神領である高野山を丹生都比売大神より譲り受け高野山を開いたという。以来、「丹生都比売神社」は高野山と深い関係が生じることになる。「丹生都比売神社」は高野山参詣の表参道である町石道の途中にあり、かつてはここに参拝した後、高野山に上るのが普通だったようである。鎌倉時代に気比神宮から大食都比売大神が、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子より寄進されて本殿が四殿となった。
【参考】辰砂
硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。不透明な赤褐色の塊状、あるいは透明感のある深紅色の菱面体結晶として産出する。中国において古くから知られ、錬丹術などでの水銀の精製の他に、古来より赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。日本では弥生時代から産出が知られ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述されている。古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていた。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは吉野川上流や伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などが特産地として知られた。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入された。現在では奈良県、徳島県、大分県、熊本県などで産する。ただし、現在の日本では水銀及びその化合物は、全量廃乾電池などのリサイクルで賄われており、鉱石からの製錬は行われていない。陶芸で用いられる辰砂釉は、この辰砂と同じく美しい赤色を発色する釉薬だが、水銀ではなく銅を含んだ釉薬を用い、還元焼成したものである。また、押印用朱肉の色素としても用いられる。
帰り道、時間があったので「九度山」の町を散策することにしました。