高野街道(95)
■丹生官省符神社
弘法大師が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社です。社殿三棟は木造一間社春日造、桧皮葺、極彩色北面で重要文化財に指定されています。神社ができた当時の位置は、現在の渡し場の東にあたる宮の橋の付近であったと考えられています。その後、河北から高野領地となり、官省符21ヶ所村が成立しますと、その総氏神として栄えてきました。慈尊院の弥勒堂が現在の位置に移された際、この神社も一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移されました。その時、天野神社にならって気比、厳島二神を合わせ祀って四神とし、なお、古くからこの地に鎮座していた天照、八幡、春日の三神を合わせ祀って七社明神としました。
慈尊院のお寺から続く石段を登ると最初に見える鳥居は、明治43年に町内の九度山、入郷、慈尊院の三地区の氏神社、無格社が丹生官省符神社と合祀されたのに伴い、大正10年8月こちらに移されました。拝殿の右脇にある細道から、おしょぶ池、勝利寺、町石道をへて高野山へと続いています。神社を出て少し坂を下ると、そこに179町石があります。これは、文永6年(1269年)、鎌倉幕府第6代執権北条長時の弟、時茂によって建立されたものです。
・・・かえるのお守りをゲットしました。
■勝利寺
弘法大師(空海)が高野山を開創される以前の創建と伝えられています。大師が42才の時、厄除けのために十一面観音を奉納されたことから、厄除観音として信仰されてきました。昔は高野山町石道の玄関口として参拝者で賑わったそうです。
仁王門をくぐると正面に十一面厄除観音菩薩の本尊を祀る観音堂があり、その右には地蔵堂、左には大師堂があります。現在では、スポーツや勝負ごとに勝つことを祈願する寺として親しまれています。
■紙遊苑
弘法大師に教えられたと伝えられる手漉き和紙「高野紙(古沢紙)」は、厚紙で笠紙・障子紙・合羽・紙袋・ちょうちんに張る紙等として利用されていました。最盛期には、九度山町古沢を中心に約100軒の家々が紙漉きを行っていました。しかし、最近はこの伝統ある高野紙もわずか1軒が漉いているにすぎません。そこで、九度山町では先祖の伝えたこの伝統文化を後世に伝承しようと、紙の資料館と体験室を兼ねた「紙遊苑」を創設しました。紙遊苑は、世界遺産高野山町石道内にある勝利寺の建物のうち、庫裏・土蔵・長屋門・庭園を譲り受け、そこに茅葺きの体験資料館を建設したものです。