高野街道(94)
■慈尊院(女人高野・結縁寺)
平成16年7月世界遺産に登録された慈尊院は、弘仁7年(816年)に空海(弘法大師)によって開かれ、当初は慈氏寺と呼ばれていたと伝えられています。高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。藤原道長や鳥羽・後宇多上皇などが利用したそうです。
当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられていますが、天文9年(1540年)紀の川の大洪水にて流失しました。しかし、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれました。弘法大師の母が香川県善通寺から高齢をおして訪ねてきましたが、高野山への女人の立ち入りを厳しく禁じていた弘法大師は母をも入山を許しませんでした。弘法大師の母は慈尊院に住まわれ、承和2年(835年)2月に83歳で逝去しました。
母は本尊弥勒菩薩を深く信仰していたため、入滅して本尊に化身したという信仰になり、女人の高野参りはここ慈尊院ということになり、女人高野とよばれるようになりました。この地を九度山と呼んでいますが、これは弘法大師は月に9度は高野山から山道を下り母を訪ねられたことに由来しているということです。
【参考】有吉佐和子さんの小説「紀ノ川」の舞台となった和歌山県九度山町の世界遺産・女人高野別格本山「慈尊院」で、2012年5月から発売している全国でも珍しい「乳がん平癒守(へいゆもり)」の販売数が、8月すでに1000袋を突破した。安念清邦住職(68)は「全国各地から希望があり、闘病生活の大きな力になっているので、発売してよかったと思います」と言っている。この「お守り」は西陣織で作られ、高さ5センチ、幅3・5センチと小ぶりで、乳がん撲滅の象徴であるピンク色。1袋500円(送料は別に80円)で販売。1000袋が売りれた後、今は追加制作した500袋の一部を置いている。慈尊院と交流のある同県橋本市の紀和ブレスト(乳腺)センターが、昨年秋、乳がん撲滅を祈って、同院に「特大おっぱい絵馬」を奉納。さらに、最近は同院に乳房形の絵馬を奉納する乳がん患者が多いことから、慈尊院と同センターが、乳がん患者の会の意見を取り入れたうえで、「お守り」を制作したという。同院は弘法大師・空海の母が、女人禁制のため、高野山に登れず、住んだと伝えられている。奉納された「特大おっぱい絵馬」の下には、同院の〝乳房信仰〟について、「廟の前の柱にぶら下がっている数々の乳房形に気がつくと、しばらく瞑目することを忘れていた。それは羽二重で丸く綿をくるみ、中央を乳首のように絞りあげたもので、大師の母公と弥勒菩薩を祀る霊廟に捧げて安産、授乳、育児を願う乳房の民間信仰であった」(小説「紀ノ川」より)と、綴っている。安念住職は「まさかと思っていた夫から〝お守り〟をもらって大喜びの奥さんや、息子から〝お守り〟をもらって幸せをかみしめる母親など、当院には〝お守り〟にまつわる礼状が次々届いています。闘病生活はとてもつらいと思いますが、〝平癒守〟で心を強くもってください」と言っている。
まさしく「女人高野」です。