高野街道(92) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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高野街道(92)


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「かむろ大師」を出たところで・・・


■三里石

かむろ大師前にある民家の玄関オブジェのように置かれた「三里石」。元は学文路小学校の近くにあったものが移されたようです。


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■もう一つの三里石

旧道から再び国道に出たところにある道標石です。西へ進めば慈尊院へ一里、そして慈尊院から町石道を辿り大門まで五里の道のりです。南へ進めば京・大坂道で高野山女人堂まで三里の道のりです。


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またまた南海高野線の踏み切りを越えて、急な坂道を登っていきます。


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学文路苅萱堂橋本市学文路

学文路苅萱堂は、石童丸物語にまつわる貴重な有形民俗文化財を多数所蔵。しかしその開基は明らかではありません。昭和末期には廃寺になりかけていたところ、この地を舞台とした石童丸物語を再び広く伝えようと、保存会のメンバーを中心に地元住民の尽力によって1992年に現在の姿に再建されました。最近の話題として、2009年3月に人魚のミイラをはじめとする32点の所蔵物が、和歌山県の有形民俗文化財に指定され、県内外から訪れる人が増えているそうです。石童丸物語は、中世以降、高野聖の一派である萱堂聖によって全国に広がり、江戸初期には、説経節、浄瑠璃、琵琶歌となって広く世に知られてきました。学文路苅萱堂保存会原作による創作オペラ「石童丸ものがたり」も評判になり、公演が続けられています。


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【参考】九州博多のお城のお殿様だった加藤重氏。ある時出家をして苅萱道心と名乗り、高野山で修行をしていました。息子の石童丸と母親の千里御前は、父を捜して高野山へ向かいました。当時、高野山は女人禁制。母親の千里御前は麓の学文路(かむろ)の宿で待っていました。しかし石童丸が帰る前に、宿で亡くなってしまいました。石童丸は、その後苅萱道心の弟子となって修行しました。でも最後まで父と子と名乗らずに仏様にお仕えしました。やがて苅萱道心は、信州に来て地蔵菩薩を刻んで亡くなりました。それを知った石童丸も信州に着て、地蔵菩薩を刻んで亡くなりました。これが現在、かるかや山西光寺の御本尊の親子地蔵尊。またこのお話は、善光寺裏手の往生寺にも伝わっています。往生寺は父親の苅萱上人が亡くなった場所、かるかや山西光寺は息子、石童丸が亡くなった場所と言われています。ところで「かるかや山西光寺」の境内には「千里御前の墓」があります。