高野街道(91)
看板に誘われて、国道370号線から左に曲り、かの有名な学文路天満宮に立ち寄ることにしました。まさか、こんな畦道のような狭いクネクネ道を通るとは・・・そして、南海電車の踏切を渡ったところにありました。
■学文路天満宮/橋本市南馬場
学問の神様・菅原道真公を祀る「学文路天満宮」は、受験シーズンになると入学祈願にたくさんの参拝者が訪れます。学文路駅から国道370号線の平坦な道を紀伊清水駅方面へ歩き、大きな案内板を目印に柿畑の間を通って山手へ。山あいの静けさの中にたたずむ天満宮は、学力向上のほか、災害よけや厄除・良縁をさずける神としても知られ、受験生でなくても訪れたい場所。10月の秋祭りには、神事のあと町に御神輿がくり出し、境内では演芸や餅投げで賑わいます。
帰り道、またまた踏み切りを渡るのですが、ウロウロしていると近所のおばさんが12時頃に「天空」が見れるよと教えてくださいました。
再び国道に出て進むと、大きな石柱があって・・・
■大畑才蔵さん
紀の川の北筋を走っている水路、小田井と藤崎井を造り、橋本市から和歌山市の間に広がる水田地帯を開発した江戸時代の偉人です。
紀北の地に長い水路が二筋並行してのびています。一つは小田井(おだい)といい、もう一つは藤崎井(ふじさきい)といいます。伊都、那賀、海草の三郡の肥沃な田野はこの二つの恩恵を受け、そして、又、十万の人々もこの水の恩恵を受けています。これは大畑才蔵が水路を開発したおかげです。大畑才蔵は名を勝善(かつよし)といい、伊都郡学文路村(いとぐんかむろむら。現橋本市)で寛永19(1642)年に生まれました。才蔵は小さいころから算数が得意でした。大人になってから土木に精通し、元禄9年(1696)年3月に紀州藩に召され農政に携わりました。才蔵が55才のときです。この年に工事を藤崎井から始め、11年目の宝永4(1707)年に小田井の工事を始めました。この2つの水路の開削は、もともと藩主が住民を救済するために行ったものです。当時、才蔵は、木、竹を使ってやっとのことで測量しました。水路を山ぎわで迂回させ、又、谷川を横断させ、暗渠(トンネル)を掘って川底を通したり、川の上に渡井を掛けるなど、この上なく困難な工事であったことは、今日においても人々のひとしく感心するところです。才蔵がこの二つの水路の敷設のために開発した技術は数え切れません。こうして正徳5(1715)年に74才で藩の職をやめるまで、藩主のため誠心誠意仕え、大事業の成果をいたるところで残したのです。才蔵が2つの水路を開削して以来二百数十年、この地方は水路の恩恵を受け、又、才蔵の功績は極まりないけれども、世の人々の多くはそのいわれを知りません。
■かむろ大師/橋本市学文路
1910年(明治43年)開祖尊海上人により開創された「かむろ大師」。当初は旧高野街道に面した町中にあり、その門前脇にある物狂地蔵尊の前には弘法大師が高野山と各地を行き来された際に休まれたと伝えられる「腰掛け石」が残されています。また、開創時より行われている御祈祷(水加持)のご利益を求めて、尊海上人が入滅された今も近在近郷はじめ全国から参詣者が訪れています。隣接する奥之院の一部は「平和公園」として一般の方々にも開放され、親しまれています。1989年(平成元年)参詣者の増加と旧本堂の老朽化に伴い、5年の歳月をかけて現在の地に建立。現在では「学文路」の文字にちなんで合格祈願の参詣者も増えているそうです。
・・・移転した「かむろ大師」へは、またの機会に訪問したいと思います。