高野街道(89)
■大森神社/橋本市東家
この神社の対岸あたりに「三軒茶屋渡場」があるらしい・・・
・・・ということで「橋本橋」を渡りました。
■三軒茶屋渡場大常夜燈篭/橋本市賢堂
紀見峠から沓掛、矢倉脇、慶賀野、橋谷を経て御幸辻、寺脇、東家で難所の大河紀ノ川にたどり着いた高野山参詣の人々は、舟運(横流し、渡し)を利用して向こう岸の高野山側(三軒茶屋、学文路)に渡った。天正15年(1587)に応其上人が紀ノ川に約130間(約230m)の橋を架け、高野山への旅人の便を図ったと伝えられている。応其上人が架けた橋が洪水で流されたため、橋本と学文路地区の間には、渡し舟ができ、三軒茶屋には、渡し場の位置を示す石燈篭が残っている。その頃、橋本の川湊にはいつも40隻ほどの舟が留まっていたという。以後、約300年間、諸国の多くの旅人たちを送り迎えた。三軒茶屋について『紀伊続風土記」は、「高野街道の茶店なり。村旧居は横座より三軒街道に出て、茶店を出せりより名とす。高野往来にて便利なるより次第に賢堂、横座より集まり来て、今は25軒ほどの人家となれり」と述べている。幕藩時代、橋本町は、旅人はもちろん、物資集散する流通拠点となり、紀ノ川流域最大の川湊として繁栄を誇った。寛政6年(1794)紀州藩主に国学を講義するよう招へいされた本居宣長も、松阪からの道中、橋本で舟を雇い和歌山へ下ったという。増水時には旅人を煩わせたことであろう。
・・・川向こうに「東家渡場」の灯籠が見えました。
■旧高野街道六地蔵(第一)「西行庵」/橋本市清水
江戸時代の後半、高野参詣の旅人の安全を祈念して、橋本市清水から高野町桜茶屋までの間に、六体の地蔵菩薩像が建立されたといわれる。記録もなく、現存する仏像の銘文も判読困難で、確証はないが、長い間にわたって高野街道六地蔵の第一地蔵として人々から大切にまつられてきました。ここは最初の地蔵が建立された場所といわれ、西行法師の旧跡とも伝えられる。堂内には現在、木造地蔵菩薩像が安置されています。
【参考】平安時代末期の歌人・西行法師ゆかりの和歌山県橋本市清水の「西行庵」が再建され、3月27日、地元の高野山真言宗「永楽寺」の下田隆宗住職や関係者らが参集し。落慶法要が営まれた。同庵の西国33所の観音像を修復奉仕した元県立橋本高校校長の瀧本浩邑さん(66)ら参列者は「西行庵が立派に再建され、本尊・地蔵菩薩坐像など諸仏が、元の場所に祀られてよかった」と喜んでいた。新しい西行庵は、木造平屋建て瓦葺(34平方メートル)。表には鉦緒(かねお)を吊るし、花台を設置。内部の広い仏壇には、珍しい地蔵菩薩の坐像や西行像など6体、その東隣の引き戸のある仏壇には、西国33所巡りの小さな観音菩薩像33体を安置した。観音菩薩像は、御手や光背などが外れ、埃まみれになっていたが、瀧本さんが観音菩薩の描かれた「那智山の掛け軸」を参照し、丹精込めて修復。埃は筆で払い落とした。すべての観音菩薩像の前には、例えば「二番 紀伊 紀三井寺」などと筆書きした木札を立てた。旧・西行庵は、シロアリに食われるなど、荒廃はなはだしかったが、地元の篤志家の浄財により、再建が見事成就。橋本市郷土資料館で、一時保存していた諸仏を、改めて安置した。この日、西行庵には約50人の善男善女が参集。下田住職が厳かに読経し、諸仏の開眼法要、建物の落慶法要を執り行い、善男善女は一心不乱に手を合わせていた。下田住職が「荒廃したとはいえ、古い建物を撤去するのは残念でしたが、今は、皆さんのお陰で、このように立派な西行庵を再建することができました。また、傷みがひどかった西国33所の観音菩薩像は、瀧本様のご尽力で、美しく修復されました」と感謝。瀧本さんは「私は日曜大工が好きなものですから、このように〝有難いこと〟をさせていただきました」と説明した。最後に餅まきをして、諸仏開眼、建物落慶を祝った。西行庵は橋本市立清水小学校の北側、高野山麓の旧・高野街道わきに建つ。江戸時代の紀伊名所図会に描かれ「地蔵堂」と呼ばれてきた。同庵東側には「国城の里 観音霊場巡拝 六番札所」と掲示され、石の地蔵尊が祀られている。
次々に見つけたくなる史跡が増えていくので・・・頭がこんがらがりますね。