高野街道(88)
■応其寺/橋本市橋本
橋本開基の恩人木喰応其(もくじきおうご)が荒れた里寺を再建したものです。応其上人は、高野中興の祖でもあり豊臣秀吉の紀州征伐から高野を救いました。寺に残る唐子織袈裟は秀吉の寄進といわれます。
■戎神社
由緒ある、橋本戎神社。国道24号線拡幅工事で、昨年この場所に移転しました。ここはご近所の方々で運営されています。
【参考】今宮戎神社(大阪市)の宵戎、本戎、残り福で、参拝者が求める〝福笹(ふくざさ)〟が、和歌山県橋本市の国城山系の竹薮で調達され、同市隅田町の大弥工芸(奥村浩章社長)から出荷される。奥村社長は「今年の笹は枝葉ともによろしく、商都・大阪の皆さまの商売繁盛を確信しています」と話した。今宮戎神社で使われる〝十日戎(9、10、11日)〟の福笹は、紀州・国城山(標高552メートル)系の山々に自生する〝孟宗竹〟が材料。今宮戎神社から依頼された大弥工芸は、地元の農家の人たち約20人に強力を依頼。同市学文路の選果場で、選定ハサミで長さ1メートルに切りそろえ、枯れた枝葉や形の悪い葉を取り除いたうえ、100本を1束にし、3束を〝窓付き〟ゴザで巻き、計6万本をトラックで出荷する。大弥工芸は、笹の葉が青いまま枯れない新技術を開発していて、その方面でも名高い。
橋本は高野街道の表口や大和街道沿いで、常に交通の要衝を占めていた。中でも16世紀末、高野山中興の僧:木喰応其による橋本町の開設以後、水陸交通の要として、紀伊・大和・河内の物資集散地として繁栄し、この地方の政治・経済の中心地であった。江戸時代は橋本市の中心を占める、古佐田・橋本・東家ともに、和歌山藩領御蔵所上組(東家組)に所属していた。
橋本は天正13年(1585)僧:木喰応其が荒地を開き、紀ノ川に130間の橋を架け、高野山往還のための宿所とし、橋本と名付けたのが始まりである。開発地は秀吉から町屋敷として免許され、町助成のため塩市の特権も認められ、大和や紀ノ川流域の村々へ搬出される塩は必ず橋本の塩市で取引するよう義務づけた。高野街道と大和街道の交差する橋本は宿場町・船継場となり周辺の物資が集まり、物資輸送の川舟が和歌山との間を往復して繁栄した。当時の家数・人数を見ると、享保元年(1716)の「御巡見様御尋之時に可申上口上覚」では、橋本町の家数218軒・人数は橋本町、古佐田合わせて1,417人。天保年間(1834~43)の「紀伊続風土記」によると、橋本町・古佐田村合わせて家数390軒・人数956人、東家村は家数103軒・人数465人であった。東家村も橋本町同様に「人家多く町をなし紀伊見峠を越えて高野に至る街道なれば旅舎もあり‥‥‥」とあり「続風土記」に記されている。
享保元年(1716)の「御巡見様御尋之時に可申上口上覚」では江戸中期の橋本町・古佐田村の商売人は塩屋25・麦米屋21・古手屋16・荒物問屋12・魚屋10・質屋5・木薬屋3・醤油屋3・味噌屋3・酒屋3・小間物屋2となっている。塩屋が他所と比べて多いのは、秀吉によって免許された塩市に起因している。橋本塩市は天正15年(1587)秀吉によって許可されて以来、「一六塩市」と呼ばれ、塩仲間によって月六回、後に12回開かれていた。今、伝統的な商家の建物は古佐田・橋本・東家に多く残り、中でも旧大和街道筋の橋本の本町商店街に多く残っている。しかし、老朽化した家屋はビニールシートに覆われ、隙間から垣間見ることしかできない。伝統的な商家の建物は切り妻造り、平入り、中2階建て、虫籠窓が一般的な建て方であり、中には煙り出しや袖壁が備わった家屋もあった。
・・・現在、再開発がどんどん進んでおり、残念ではありますが昔の姿は消えつつあります。
■東家渡場大常夜燈籠
高野街道は京・大坂・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山の慈尊院から町石道を登った。その後、御幸辻から南下して当地に至り、紀の川を渡って学文路から高野山へ登っていく道が開かれ室町時代後期にはもっぱらこの道がもちいられるようになった。橋本の地名の由来になった橋は天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが3年後に紀の川の増水によって流失し、舟による横渡が行われるようになった。その紀の川北岸渡場にあったのがこの大常夜燈籠である。この石燈籠が建てられたのは文化11年(1714)で、長く「無銭横渡」の渡場を伝えてきたが、その後、河川改修のため現在地に移築された。元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち、1基は紀の川の洪水により流失した。台座四面の銘文によると阿波国藍商人の連中をはじめ、京都・難波、堺の商人および和歌山んの川舟仲間ほか多人数の講社・信者の浄財によって建てられたもので、当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀の川渡場の賑わいを今に伝えている。
■ここに・・・「四里石」もあります。