高野街道(77)
またまた大阪狭山市の情報をいただきました・・・
■大阪狭山聖地霊園/大阪狭山市今熊2丁目
帝塚山学院大学の西側にあり、半田・今熊・茱萸木の人びとによって管理されてきた共同墓地(大三昧墓地)で、墓域は地区毎に明確にわかれています。現在は、大阪狭山聖地霊園として管理されています。墓地の中央部につくられた道の両側に三躰ずつ寛永二一年六地蔵が立っています。六地蔵とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をめぐって輪廻を繰り返す衆生を救うためにつくられた地蔵のことで、ここの六地蔵は1644年の建立です。輪郭部分に「奉為造立六地蔵六斎衆等三十八人二世安楽法界」「于時寛永二十一年二月十八日敬白」という銘文が見える地蔵があります。六斎衆とは、月のうち六日間潔斎して念仏を唱える人々のことです。「六斎衆38人で六地蔵を造立し奉ります。この世が無事で、あの世もよいところへ行けますように。生きとし生ける人びとすべてもそうでありますように」との願いが込められているわけです。墓制は、この地域に浄土真宗寺院がないことから、かつては火葬は行われていなかったということです。また、茱萸木には両墓制をとる家と単墓制をとる家とがあり、大三昧墓地を利用するのは単墓制をとる家だそうです。半田にも両墓制をとる家があります。ちなみに両墓制とは埋葬地と墓石建立地が異なるもの、単墓制とは埋葬地の上に墓石を建立するものを言います。
■松田家住宅/大阪狭山市茱萸木6丁目
西高野街道に面した本住宅は、明治後期の建築で、江戸時代に茱萸木村と菩提村の庄屋および菩提村の水下惣代を勤めた大庄屋古川家の住宅であった。周囲に庇をまわし、屋根には煙出しを備え、正面中央には入母屋屋根の張り出し玄関を設けた豪壮な佇まいは、上層農家の面影を今に伝えるものである。また、座敷には良質な座敷飾りを備えており、格式の整った近代和風建築の好例である。
・・・何度も前を通っているのに気づかなかったのは、文化財標示が門前の石に取り付けられていたからです。
大阪狭山市と河内長野市の境目となる「天野橋」についても、旧道としてはもう一本の小さな橋の方ではないか・・・とのご意見もいただきました。
小さな祠もありましたし、昔は街道から下って川岸近くに橋があったと言う話もあります。再び街道にあがった所で、見落としていた案内標示も発見することができました。
ようやく、河内長野市「出合ノ辻」までもどってきました。信号を右に行けば「八幡神社」、左に行けば「天見駅」「南天苑」があります。
■出合ノ辻
天見駅の南西方向に「出合い橋」があり、この辺りは「出合ノ辻」と呼ばれています。とてもロマンチックな名前に感じますが、南北朝時代の古戦場で、正慶2年(1333年)の正月に、楠木正成が率いた南朝軍と北朝軍とが、この辻で出くわして、「安満見合戦」と呼ばれる激しい合戦が行われたことで、この地名になったのです。前回紹介した「河泉二十四地蔵霊場」第一番の地蔵寺の後方の小高い山中には五輪塔があり、「王の塚」または「見方塚」とも呼ばれています。これは安満見合戦で戦死した楠木軍の名だたる将軍の墓と言われていて、戦死した南軍の将兵を弔うために、地蔵寺をつくり、地蔵菩薩をお祀りしたと伝えられています。信仰の道であるはずの高野街道も、南北朝時代には、兵馬が行き交う軍用道路でもあったわけです。