高野街道(67) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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高野街道(67)


※ここからは「東高野街道」改め「高野街道」と標記します。


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さてさて、様々な街道が合流して、ようやく「高野街道」と呼べるわけですが、その再スタートは・・・



西條合資会社

西條合資会社は江戸時代中期の1718年に創業した10代続く造り酒屋です。かつて河内長野には4件の酒蔵があったそうですが、全ての酒蔵が濃醇な甘口の酒を造っていたそうです。僧坊酒、天野酒はとても濃醇な甘口酒であった事から、蔵元は僧坊酒の醸造技術が地元の酒蔵に何らかの形で伝授されたのではないかと推測されています。金剛寺の僧坊酒であった天野酒が消滅した後、河内長野に唯一残った酒蔵として、自分達の酒つくりのルーツと考えられる天野酒を今に引き継ぎ酒造りをされています。高野街道の雰囲気を感じさせる美しい蔵の景観は、文化庁の登録有形文化財にも指定されています。


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・・・一升瓶が2本入る「鞄通」手提げを購入しました。


長野町から喜多町へ、国道371号線を横切り、烏帽子形八幡神社へ。辻に大きな「本現寺」の看板が建っていたので、立ち寄ってみました。



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本門佛立宗「本現寺」/河内長野市喜多町

開導聖人。正しくは“本門佛立宗/開発教導・日扇聖人”は、文化十四年(1817)に京都で生まれます。幼名は大路仙二郎、文人としての雅号は長松清風、得度後は無貪清風・日扇と名乗られました。日扇聖人は29歳の時に本門法華宗に帰依し、32歳で出家得度します。得度してからの十年は、旧弊で形式化した部分を残している教団と、これを正そうと試みる日扇聖人の間で何度か対立がくり返され、ついに39歳の時に教団と決別せざるを得なくなります。教団に依ってではなく、信心に依って進むことを選んだ日扇聖人は、一般在家の人たちと法を行じていくため、41歳の時に、<本門佛立講>を開講し、集まった人たちの信心の深さに強い感銘を受けます。「三十年来の学文は、学文はいらぬというを学びたり。むかしの“信”の一字にかえりしが、学文なり。」この自覚から、ひたすら題目口唱に専念する本門佛立講が出発するのですが、それはそのまま、“易行”をつらぬいた日隆聖人に通じる道であり、“口唱専一”を説いた日蓮聖人に通じる道にもなっていきます。同じ時代に、“四民平等”を目指して明治維新をなしとげた人たちが、政治の力で階級制度の改革を実現できなかった歴史的事実を考えれば、僧と俗を問わずにひたすら信心を深めるという<お講>のあり方をつらぬいた日扇聖人の真意は、階級(カースト)制度の厳しいインドで絶対無差別の地平から法を説かれた、釈尊の真意に通じる道でもあったのでしょう。


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烏帽子形公園

昭和30年代に風致公園として烏帽子形城跡を含む烏帽子形山の敷地に開園された。烏帽子形山に遊歩道(ハイキングコース)を整備した公園であり、ありのまま自然が残されている。そのほか、プールや展望台などがある。烏帽子形遺跡という古墳時代後期(6世紀代)の円墳があり、過去の調査で自然石で構成された横穴式石室の存在が確認されている。市内にある公園の中でも長年整備されないままであったため、この公園自体を烏帽子形城跡と認識されることも多い。



烏帽子形城

楠木正成が築城した楠木七城のひとつで、上赤坂城の支城の山城である。東側斜面に烏帽子形八幡神社、北側斜面に烏帽子形古墳がある。2012年1月に国の史跡に指定されて以降、遊歩道などの再整備や案内板などの改修などが行われた。


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烏帽子形古墳

烏帽子形山にあります。現在、山は烏帽子形公園として整備され、烏帽子形古墳周辺も展望台のある古墳広場になっています。昭和46年(1971)に古墳の形を知るために調査を行った結果、直径約16m、高さ約3mの円墳であることがわかりました。


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烏帽子形八幡神社

網干形城跡の東山腹に社殿があり、創建の年月は詳からではないが、昔烏帽子形山には所謂河内七城の一なる烏帽子形城と言う一支城があって、楠二郎が拠っており、その頃北の城の鎮護として創建祭祀したものと伝えられている。神社は、その後久しく荒廃していたが、文明十二年(西暦一四八〇年室町幕府足利義肖の時代)河内源氏の末裔と言われる石川八郎左右衛門尉が、新たに入母屋造りの社殿を建立した(現在の社殿はこの時の姿に復元されている)。後、室町時代に一度修理されたのみで、荒廃していたものを、楠氏の後裔と言われる甲斐荘喜右衛門正保が、元和三年(西暦一六一七年徳川家忠の時代)大阪天王寺の普請奉行を勤めた時、その竣工後、自分の居城の鎮守が甚だ荒廃しているのを嘆き、其の余材を以て引き続き、修繕造営し、元和八年(西暦一六二二年)八月上棟した。尚、この神社の境内には、正保寺、特寿院と称する天台宗の宮寺があり元は高福寺と呼ばれ、本尊に釈迦と聖観音を祀っていた。この寺は、楠正成の信仰篤く、大般若経の転讀を行い、後村上天皇が賊難を吉野にさけ給う時、特にここの梵鐘を持ち運ばれたと言われる。この梵鐘は「河内国高福寺鐘康永元年(西暦一三四二年)癸午八月楠氏奉献」の由来が刻まれており、今も奈良県賀名生の堀家に所蔵されている。寛永年中(西暦一六二四年~一六四二年)より、徳川将軍の命により、徳寿院は観心寺の榎本院、経蔵院、五智院、理趣院、心王院、威徳院、真福院の衆中より、僧衆五人宛六人で当社において、天下泰平の祈願の為、正月、五月、九月に永代般若経の転讀を行ったが、この経巻は楠氏一族の寄付により、今は観心寺に所蔵されている本殿は所輪二十五年重要文化財に指定され昭和四十年七月より解体修理し、四十一年九月竣工、文明十二年当時の姿に復元された。建築様式は、桁行三間、梁間二間、入母屋造檜皮葺、身舎は円柱、正側三方に縁をめぐらし、中央に五段の木階をつける。宝珠の高欄を供え、側面後端に脇障子をおき、向拜は三間の総向拜で向拜床浜床を設ける。内部は、内陣と外陣とに分かれる。本殿の建立年代は、棟札、及び、保存修理工事中、棟東の墨書の発見によって文明十二年(一四八〇年)であることが判明した。甲斐荘喜右衛門正保の子、正述は当時長崎奉行の職にあり万治二年(西暦一六五九年四代将軍家綱の時代)より三年にわたり八幡神社の境内に位牌堂、経堂、上下の鳥居を建立したが、位牌堂は現存しない。明治初年、神仏分離により宮寺を廃絶し、神社のみ明治五年村社に列し、明治四十年十月十九日大字小塩字宮山の村社八幡神社を合祀し明治四十一年十二月神饌幣帛料供進社の指定を受けた。