東高野街道(56)
■東西高野街道合流点モニュメント//河内長野市長野町
河内長野市商工会が、平成22年10月に創立50周年事業として設置しました。
■吉年邸/河内長野市長野町
街道に面した「表屋造」と「袖蔵」は、江戸時代の豪商の風格を残した構えです。享保17年(1732)以降、伊勢神戸藩の郷目付けと大庄屋を勤め、文化8年(1811)上田村田中家から鋳物師職を引き継ぎ、現在に至っています。200年近い年月を、現在に至るまで、ひとつの職業を引きつずき、繁栄させているという大変な努力を払っています。建物に、覆いかぶさるように茂る楠木の巨木は、市の天然記念物に指定されております。幹の太さから推定すると、樹齢は500年を越すとされています。その幹周りは、約5m高さ約20m張り出した枝の幅は約30mはある巨木です。
高野街道は右の道を行くのですが左すぐに・・・
■長野神社/河内長野市長野町
吉年邸の前の道をしばらく行くと、左手に「長野神社」があります。長野神社という名称は、明治以降のことで、それまでは,「木屋堂宮」、あるいは「牛頭天王宮」と呼ばれていたそうです。この神社の近くに木材が集められ、市が立ったことから「木屋堂」と呼ばれるようになったらしい。また、本殿の祭神が「牛頭天王」、すなわちスサノオノミコトであることその名で呼ばれていたようです。本殿は、16世紀頃に建てられたのではないかと考えられており、重要文化財に指定されています。建物は、一間社流造りで、これは正面の柱間が1間で側面からみた屋根の形が後ろが短く、前が長くなっている構造の神社建築。また境内には、大阪府指定文化財になっているカヤノキが立っています。高さが17m幹廻りが4mあるそうです。
■西條合資会社/河内長野市長野町
天野酒西條蔵は享保3年(1718年)から280余年間、河内長野市で酒造業を営んでまいりました。創醸期から明治末期までは「三木正宗」、大正・昭和を通じて「波乃鶴」の銘柄で親しまれていましたが、昭和46年に天野山金剛寺のご好意と地元の方々のご声援を頂き古格「天野酒」を復活いたしました。「天野酒」は河内長野市にある天野山金剛寺から由来いたします。お酒の技術が確立したのは室町時代末期ですが、その当時酒造りと流通の中心となっていたのが各地の寺院でした。このためお酒は僧房酒と呼ばれていました。天野山金剛寺の僧房酒「天野酒」は後花園天皇の実父伏見宮貞成が永享4年(1432年)に記した日記「看聞御記」にしたためられています。お酒の品質がまだまだ十分でなかった当時にあって、その品質の高さは宮廷にも認められておりました。戦国時代に入り天野酒は戦国武将の愛飲するお酒となりました。京都御所に献上した楠正成を初め、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、小堀遠州など枚挙にいとまがありません。特に天下人太閤秀吉は天野酒を愛でて、度々使者を使わせて買い求め、良酒醸造に専念することを命じた朱印状を天野山金剛寺の下付したほどです。復活した天野酒は毎年、岩手県の南部杜氏によって丹精に造られています。酒造りに適した高品質米を用い高度自家精白して、南部杜氏が手間隙を惜しまず醸し上げる一滴一滴は芳り高く醇らかです。
・・・この通りが最も街道の雰囲気を感じるところです。ぜひ、行ってみてください。