東高野街道(53)
■瀧谷不動明王寺/富田林市彼方1762
日本三不動のひとつ。山号は瀧谷山。正式な寺号は明王寺。一般には山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動、滝谷不動尊と言う。また、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。寺伝によれば、821年(弘仁12年)に空海が龍泉寺に参籠したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子(の像を刻み、それら3体の仏像を祀るために諸堂が造営されたことを起源とするという。造営当初は今より、約1km離れた獄山の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。
南北朝時代になると楠木正成が嶽山に築城し、守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬した。1360年(正平15年)に足利義詮が獄山・金胎寺城を攻め、そのときの兵火で諸堂が焼失した。伝承によれば、このときに不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子は滝の下に移されて焼失を免れた。その後、盲目の老僧が現れて、瀧谷不動明王寺の不動明王の霊験を人々に説いて、二間四面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は晴眼(眼が見えること)になり、姿を消したという。この盲目の老僧は、弘法大師の化身であるとも、また、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多い。1462年(寛正3年)に畠山政長と畠山義就との間で獄山において合戦があり、そのときの兵火で再び焼失。慶長年間(1596年~1615年)に三度目の再興が行われて、現在に至っている。
・・・寺の最上段でスケッチしている懐かしい友人にバッタリ、これも神様仏様が惹き合せてくださったのかもしれない。
さらに調子に乗って・・・
■嶽山窯跡群と嶽山城址
近鉄滝谷不動駅をおりて東に進み、石川をわたると右手にこんもりとした山、嶽山が見えてきます。この山の山頂一帯は、古代から石川谷を見下ろす重要な位置を占めており、南北朝時代には、楠木正成が嶽山城を築いた場所として知られています。嶽山城は、山腹に龍泉寺があることから、別名、龍泉寺城とも呼ばれています。「太平記」巻34(龍泉寺軍の事)にまるわる逸脱が記されています。嶽山の城には正成の子、正儀がたてこもり、北朝方は今の廿山のあたりに陣をとっていた。楠木軍らは、寄せ手が無理に攻めてこないことを知ると、100人ばかりを城に残し、木のこずえなどに旗をくくりつけて、大勢の兵がたてこもっているように見せかけた。ところがある時、土岐という一族の知恵のある老武者が嶽山をみて、山の上を飛ぶ鳥が少しも驚かないことに気付き、楠木軍の計略は見破られてしまった。土岐の一族500騎は夜明けに嶽山の城をおそい、これを見た他の武士たちもいっせいに嶽山に押し寄せ嶽山城はあえなく落城となった。「太平記」の記述は、すべて史実に基づいているわけではありませんが、後にこうした逸脱を生み出すほど長く続いた嶽山周辺での南北朝の争いも、1392年の両朝合体をもって終止符を打ちました。
「東高野街道」にもどる前に・・・
■彼方丸山古墳/富田林市彼方楠風台
住宅地内にあるこの古墳は直徑約35メートル、高さ約4.5メートルの円墳で、周囲に幅約9メートルの浅い堀をめぐらせている。 周濠の中には葺石と思われる丸石が堆積していて、もともと葺石が使われていたと考えられている。朝顔型埴輪などの埴輪片が出土している。古墳の作られた年代は、埴輪から5世紀の初め頃と考えられている。
ちょっと寄り道しずぎかも・・・
■史蹟「東高野街道錦織一里塚」富田林市錦織東3
一里塚は一般に方五間(約九メートル四方)の塚で、街道の里程のめやすとして設けられていた。塚にはふつう榎か松が植えられ、そのこかげは旅人のよい休み処ともなった。この塚は街道の両側に各一基築かれていたもので、もと西塚の頂きには一本松があった。西塚は辺長約九メートル、高約二メートルの方形堆土の残部が見られる。西塚の上と南側とには石造宝筺印塔が建てられているが、塚上のものは承応二年(1653)、南側のものは宝永六年(1709)建立の紀年があって、塚の築造はそれ以前であることを証している。
・・・ようやく本題にもどってまいりました。
東高野街道の一里塚として、不完全ながらも一対を残しているのは、大阪府下における唯一の例である。なお、この付近の旧街道は石川沿いに南下し、西塚の東から南側をめぐって西行するものと、そこで南して坂になってくだるものとに分岐していたようである。
・・・まもなく、河内長野市です。