東高野街道(48)
「和爾池」というのが気になって調べてみますと・・・
■和爾池
美具久留御魂神社の東方には、粟ヶ池と呼ぶ南北400m、東西200mの灌漑用水池があります。この池は人工の池で、日本書紀の仁徳天皇の条にある和邇池にあたると言われ、古くからあったことが想像されます。また、池の東方向には桜井町を中心とした桜井遺跡、中野町を中心に中野北遺跡が広がっています。これらの遺跡からは弥生時代の遺物、遺構が確認されている所もあり、弥生時代にはすでにこの辺りが開発されていたと推定されます。日本書紀に桜井屯倉として桜井の地名がみられます。屯倉は、大和朝廷の直轄地から収穫した米を蓄積した倉をさし、富田林市の桜井がこれに当たるとの説もあります。粟ヶ池の東側を南北方向に走る旧170号線沿いにあり、桜井遺跡の範囲を発掘調査した結果、古墳時代後期から平安時代の遺構、遺物が見つかりました。部分的な調査のため、確認できる事が限られていましたが、興味深い遺物が出土しました。それは、甑と呼ばれる、食べ物を蒸すための道具です。この土器は底部に穴がある深鉢形の土器です。この穴は蒸気が通るためのもので、穴が一つのものと、複数のものとがあります。今回、集落跡に伴う遺構から出土した甑は穴が一つでした。この甑は、古墳時代後期の須恵器とともに出土しており、その時期のものと思われます。その後、平安時代後期には、この調査区が耕作地として使用され続けていたことがわかりました。おそらく、耕作地は粟ヶ池の水を利用して多くの実りを得ていたと思われます。また、近くにある美具久留御魂神社は別名、下水分神社とも呼ばれており、この地域がいかに水との関係が深いかが想像されます。
近鉄長野線の踏み切りを越え、外環状線(国道170号線)を渡って美具久留御魂神社に到着しました。
■美具久留御魂神社
当社は大国主命を主神とし、左に天水分神弥都波廼売命、右に国水分神・須勢理比売命を祭る。社伝によれば、第10代崇神天皇の10年、支子の森からしばしば大蛇が現れて農民をなやました。天皇は自ら視察して「こは大国主命の荒御霊の荒ぶるなり宜しく祭るべし」と言ったという。ところが同62年、丹波の国氷上郡の氷香戸辺という者の子供が神がかりして「玉嘗鎮石出雲人祭真種之甘美鏡押羽振甘美御神底宝御宝主山河之水泳御魂静桂甘美御神底宝御宝主也」という信託があり(日本書記)、天皇は直ちに皇太子活目尊を遣わして当社を祭らせたといわれている。以後歴代天皇の崇敬厚く、中でも文徳天皇は嘉祥3(850)年に神階従五位上を特授し、「延喜式」には五川郡九社のうちに列記された。また河内二の宮、石川郡総社とも称された。楠正成は上水分社と共に当下水分社を崇敬し、神領寄進や社殿造営を行っている。一方、平安末期から神宮寺が神域に建立され、一度は兵火に遭いながらも復興し、室町末には下之坊をはじめとして11坊を擁する神仏の霊地となっていたが、天正13年に、豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火に焼かれ、神宮寺は再び建つことはなかった。万治3(1660)年に、75年ぶりに社殿の造営がなり社頭はほぼ旧に復した。その後200年間は僅かに民間の信仰によって社頭を支えてきたが、明治時代に入り、近郷五箇町村の氏神として郷社に列せられ、現在に至っている。
・・・もちろん、こういう説明も大切なのですが、振り返って眺めた「二上山」に見とれてしまいました。
お山そのものが・・・神です。心落ち着けて、息を整えて登っていきます。なかなか素晴らしい。
隣に「月光寺」というのがありましたので、覗かせてもらいました。とても手入れが行き届いて気持ちのいいお寺でした。
古い道標と新しい案内柱・・・いいですね。そうそう近くに「お亀石古墳」や「新堂廃寺跡」もあるはず、行くしかないよね。