東高野街道(43)
(W)「高屋不動明王」から「土塁」の痕跡を横目に、さらに進んでいくと・・・
(X)安閑天皇陵古墳(高屋築山古墳)
古墳は高屋丘陵の北端に築かれた前方後円墳で、古市古墳群内の南側のグループのひとつです。墳丘長122m、後円部直径78m・高さ13m、前方部幅100m・高さ12.5mを測り、前方部が開き、わずかに後円部の方が高くなります。周濠は幅約15mで全周しますが、外堤については地形の変形が著しく、その規模は不明瞭です。さらに墳丘部分は、中世の高屋城の築造や陵墓改修に伴って、古墳本来の形態が大きく改変されています。特に、前方部の北隅が直角になりますが、これが本来の形態かどうかは確認されていません。出土する埴輪や須恵器の特徴、正倉院と同種のペルシャ製ガラス椀の年代観から古墳は6世紀前半頃に築かれたと考えられています。
古墳前の「東高野街道」をはさんで・・・
(Y)高屋城「不動坂」の案内表示があります。
階段を降りてグルッと小学校の周囲をまわると・・・
(&)高屋城「櫓台の跡」(古市南小学校門横)
戦国時代の河内を支配する拠点であった高屋城は、堅固な縄張りと規模の大きさで知られ、今もこの一帯には堀や土塁などがかろうじて残り、当時の姿をしのぶことができる。この付近は城のⅢ郭(三の丸)の北東の隅に当たる場所で、かつては郭の外回りにめぐらされた土塁に接して、東西約15m、南北約30m、高さ約8mの土壇が築かれていた。 1980(昭和55)年の発掘調査では、土壇の上からいくつかの小規模な建物の跡と、陶磁器、古銭などが発見された。石川に面した見晴らしのよい位置にあり、周囲に堀をめぐらす堅固なつくりであることから、物見や攻撃のための櫓、武器庫、兵の出入り口など、城の防禦を固める上で重要な施設がおかれていたと考えられる。
地図で位置関係を確認してください。