東高野街道(44)
(Z)高屋城二の丸跡
案内表示があるので行ってみると、住宅開発のために駐車場になってしまっていて、あったはずの案内看板はどこにもありませんでした。
■城不動坂古墳
平成20年に高屋城北限の土塁の下から発見された古墳で、安閑陵古墳の北東約50メートルに位置しています。古墳は高屋城築城に際して大きく破壊されていましたが、横穴式石室を内部主体にもつ全長約36メートルの前方後円墳であることがわかりました。石室規模は、玄室長4.2メートル、玄室幅1.6メートル、羨道長4.8メートル、羨道幅0.9メートルを測ります。石室内からは、土師器壷、須恵器器台・高杯・提瓶・甕などが出土しました。さらに組合式家形石棺が納められていたこともわかりましたが、そのほとんどはすでに大きく破壊されていました。また周溝からは、埴輪や須恵器が出土し、なかでも盾持人物埴輪と呼ばれる珍しい埴輪が発見されました。出土した遺物から6世紀中頃に築造されたことがわかり、古市古墳群においてもっとも新しい前方後円墳となりました。
・・・住宅開発と言えば、こういう出来事もありました。
(a)城山姥不動明王
抑も呼称城山とは地元現存高野街道不動坂上東西五町南北八町い及ぶ高台一帯で古来源家を始祖とする畠山累代の高屋城址にして南北朝争乱時代の攻防巨據点たりし居城も既に壊滅廃墟正平二年このかた六百余年経過の今日夏草の老い茂るつわ者共の夢の跡を偲ぶ古城の史跡地を呼称するものである。 さて移築の現姥不動明王(旧称伯母不動)は嘗ての居城唯一の守護神で歴代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たるを縁起とす。 依つて爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を去来する老若男女の来拝萬徳の道祖神たらしめんとするにあり。因に本碑文は地元旧家森田家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。
●高屋城址(姥不動の案内表示より)
安閑陵古墳を本丸として取りこみ、その南に東西350m、南北200mの二の丸、さらに南に東西250m、南北250mの三の丸を結合する構造である。この姥不動堂の周辺一帯は二の丸の中心地域に推定されている。 文献や絵図等の資料から、高屋城の前身として古市城や誉田城の記載がみられるがよくわからない。高屋城として築城されるのは応仁の乱(1467~1477)の終結後、畠山義就によるものと考えられる。その後、畠山、三好一族が約100年間にわたり拠点として戦国の争乱を繰り返したが、織田信長により平定され、落城した。
いったん旧国道170号線に出ますが、すぐまた「東高野街道」は国道東側を南下していきます。
(b)高屋神社
高屋城三の丸の西北隅に当たり、東高野街道に接する。『延喜式』「神名帳」に列せられた式内社で、広国押武金日命(安閑天皇)を祭神とすることから、拝殿の前に立つ鳥居は皇族の象徴である神明鳥居になっている。もう一柱の祭神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は物部氏の祖先神である。当地を支配した高屋連(たかやのむらじ)が物部氏の一派であることから、彼らが氏神として祀ったのだろう。社伝によると宣化天皇3年(538)ら勅命によってこの地に創建されたものと伝えられ、明治時代末期から大正時代にかけて行われた神社合祀によって古市の白鳥神社へ移されたが、戦後の昭和29年(1954)に氏子たちの希望により、再び高屋台地に戻された。「高屋神社址」の碑が今も境内にある。本殿は銅板葺屋根のかかる一間社流造りである。