東高野街道(40)
(P)西琳寺
西琳寺は、7世紀前半(約1,350 年前)に有力な渡来系氏族の西文氏によって建立された寺院です。西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、市役所1階ロビーに展示されています。
●高屋宝生院跡
西琳寺の南に小高い高屋丘陵が存在する。その一角に鎌倉時代中期の永仁2年(1294)に、西琳寺の奥院として高屋宝生院が造営される。寺の正確な位置は不明だが、安閑陵古墳の北東付近(近鉄古市変電所)と推定されている。造営後しばらくして、境内の一角に5基の五輪塔が建立されたことが文献から知ることができる。高屋丘陵は室町時代に畠山氏の居城として高屋城が築かれた。畠山氏は、幕府の管領であった河内国守護でもあったが、家督相続をめぐって内紛が勃発し、その後応仁の乱を引き起こした人物として有名である。この高屋城の築城により、高屋宝生院や5基の石塔も壊されてしまった。所在不明になっていた五輪塔は、昭和32年高屋城跡の土塁から、開発工事の土砂撤去中に偶然発見された。さらに蔵骨器も伴出した。発見された五輪塔は西琳寺の境内に移され、現在大阪府指定文化財となっている。これらの五輪塔は、西琳寺に関係した高僧たちの墓石であり、その内訳は、中央が開山の叡尊、東方が総持、西方が道明寺開山の超運尼、北東は浄意、北西が空忍の墓であるという。
(Q)蓑の辻・道標
「左 大和路 上の太子たゑま つぼ坂 大峯山 すぐ高野山 金剛山」
「右 大坂 すぐ さかい」
「古市蓑の辻」
(R-1)古市ポケットパーク
古代より交通の要所で栄えた古市は、人々の往来で活気あふれる町であったことが知られています。竹内街道と東高野街道が交差する場所には「銀屋」と呼ばれた江戸時代の両替商が存在しました。古の風景や活気を再現するために、空閑地を活用してミニ公園を造りました。隣接して存在する西琳寺、大正初期の銀行など歴史的な建物を中心に古市のまちを偲び、人々が集う空間となっています。なお、確認調査の結果、公園の北側では竹内街道の石組側石が見つかったことから、この部分には整備の時にブロックを敷き、街道とわかるように色を変えています。
(R-2)銀屋
銀屋は、竹内街道と東高野街道が交差する古市の中心部にあった商家の建物です。寛政11年(1799)の屋敷絵図が残り、18世紀中ごろの建築と推定されます。当時では珍しい総瓦葺きで、外壁の一部には石川を行き来した剣先船の船板を利用していました。 各藩の藩札の交換などをする両替商であったとの言い伝えがあり、古市のにぎわいを偲ばせる建物のひとつでしたが、現在は見ることはできません。