東高野街道(37) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(37)



・・・東高野街道からちょっとの寄り道で、




すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-より1  


(C)東馬塚古墳/羽曳野市誉田6丁目

誉田御廟山古墳の内堤に近接して築かれた全長110m、後円部直径73m、高さ9.9mの前方後円墳。盾形の周濠が確認されているが、堤は御廟山古墳築造時に追加整備された可能性がある。年代は4世紀末頃、誉田御廟山古墳よりも先行し、陪冢ではないことが判明している。二ツ塚と、それを取り囲むように造営された誉田御廟山の間には密接な関係があった事が想定される。東馬塚古墳は二ツ塚の東にある小方墳。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-より2


(D)誉田中学校茶山グランド管理棟/羽曳野市誉田6丁目


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-より3  


・・・「広報はびきの」5月号です。


(E-1)二ツ塚古墳/羽曳野市誉田6丁目

応神天皇陵古墳東側内濠と内堤が大きくくびれており、そのくびれ部に接して二ツ塚古墳があります。これは、二ツ塚古墳が先に造られていたために、この部分の濠と堤を屈曲させて誉田御廟山古墳を築造したと考えられています。そのために、東側の外濠は西側に比べてかなり狭くなっています。2007年(平成19年)の羽曳野市教育委員会による二ツ塚古墳東側の発掘調査で、誉田御廟山古墳の東側の外濠幅は約17m、外堤幅は約29mであることがわかりました。また、この調査結果から、外濠は二ツ塚古墳の濠と共有していたと考えられます。


(E-2)応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)羽曳野市誉田丁目

古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径250m、高さ35m、前方部幅300m、高さ36mを測ります。百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立米にものぼり、大仙古墳を上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に石が葺かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたと考えられます。5世紀前半頃の築造と考えられています。墳丘のまわりには二重の周濠が巡りますが、東側では先に造られた二ツ塚古墳を避けて少しいびつな形になっています。出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品あります。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-より4  


(F)道標「右 道明寺 玉手 なら 京左 八尾 久宝じ」

東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。西高野街道は堺、下高野街道は四天王寺、中高野街道は平野がそれぞれ起点になっており、現在の河内長野駅前付近で東高野街道に合流します。東高野街道は生駒山や葛城山の山麓沿いを通る南北道であり、古代の南海道の道筋を受け継いだ道と考えられます。南海道沿いには河内国府が設けられ、中世には河内の守護所が 古市の高屋城に置かれるなど、政治・文化のパイプラインとして大切な役割を果たしていました。