竹内街道(38)
自分なりに、どうしても確認しておきたいことが・・・それは「埴生坂」についてです。なぜならば、どんなに小さな橋であろうと「○○橋」と銘々されるべきであり、同様にどんなに小さな坂であろうとも・・・と思うからです。
■埴生坂
河内と大和とを結ぶ丹比道(近世の竹内街道にほぼ相当する)に沿った、羽曳野市野々上付近に想定されている坂。記紀に見える伝承によれば、仁徳天皇没後に起こった住吉仲皇子の反乱に際し、皇太子であった後の履中天皇が埴生坂まで逃れて、燃えさかる難波宮を見て歌を詠んだという。また、《日本書紀》大化5年(649)3月条の丹比坂も、この埴生坂と同一である可能性が大きい。仁賢天皇の埴生坂本陵や来目皇子の河内埴生山岡上墓の表記を参照すると、現在の羽曳野丘陵を指して埴生山と称している。
・・・「埴生」とは、陶器をつくるための陶土が採取できる場所ということであり、「埴生山」は現在の「羽曳野丘陵」であることは間違いないでしょう。ところが、「埴生坂」となると丘陵のどのあたりをさすのかは非常に特定してにくいわけです。
この写真は「峯ケ塚公園」から「二上山」を眺めたところで、とても良い眺めです。「関西電力羽曳野営業所」との間の道は、羽曳野丘陵に上がるかなりキツイ坂があります。したがって、「竹内街道」はその急な勾配を避けて大きく迂回しています。そして・・・
■仁賢天皇「埴生坂本陵」藤井寺市青山3丁目
藤井寺市の青山に所在する野中ボケ山古墳は、羽曳野丘陵の下位段丘に築かれた前方後円墳である。宮内庁は、この古墳を第24代・仁賢天皇の埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定して管理している。野中ボケ山古墳の墳丘長は122mで、前方部を南西に向けて築かれている。くびれ部のやや前方部寄りに造出しをもち、周囲には濠と堤を巡らしてある。この古墳は、前方部が後円部に比較して大きく広がり、また後円部よりも2m高い。さらに、周濠の西の角がほぼ直角に築かれている。そのため、片直角型としても分類されている。宮内庁の管理下にある陵墓のため、今までに墳丘の調査が行われたことがなく、内部施設や副葬品に関してはいっさい分かっていない。ただ、外堤については、大阪府教育委員会が何回か調査している。昭和55年(1980)に実施した調査では、外堤の北西隅付近で周濠とほぼ平行に並べられた4基の円筒埴輪列が見つかった。その場所は周濠の肩から約11m離れていた。埴輪の制作年代は、古市古墳群の中にあっては比較的新しいものだった。昭和56年(1981)の調査では、その埴輪列からわずか数メートル北で2基の埴輪窯が見つかった。段丘の斜面を利用して築かれていた。2基の窯は同時期に操業しており、しかも5~6回の焼成しか行われた様子がない。窯跡から出土した埴輪は堤の上から出土したものとほとんど特徴に差がなく、窯はボケ山古墳の築造を契機に造られたようだ。この窯跡の発見は、大王墓の築造に伴う埴輪の製作と供給のプロセスを明らかにする上で、極めて重要な成果とされている。『日本書紀』は仁賢天皇(億計(おけ))は治世11年の秋8月の崩御し、埴生阪本陵に埋葬したと記述している。江戸時代中頃の河内の仏僧・覚峰の研究によれば、この陵墓のある字名(あざな)をボケ山と称しているが、ボケはオケの誤りである、としている。
・・・「埴生坂本陵」に沿って街道が南北に通っています。
■来目皇子「河内埴生山岡上墓」羽曳野市はびきの3丁目
羽曳野丘陵の小高い丘に来目皇子の墓がある。付近は住宅地となっていて狭い参道を十数メートル行きはじめてそこが墳墓と気づくほどひっそりとしたところに拝所がある。推古天皇の10(602)年、撃新羅将軍に任じられ、神部や国造、伴造など軍衆2万5000人を授けられ、筑紫の嶋郡に駐屯した来目皇子は、翌11(603)年、病を得て駐屯していた志摩から出撃しないまま薨去。来目皇子の薨去に伴って中央から土師連猪手を遣わし、周芳の娑婆(さば)で殯(もがり)の後、河内の埴生山の岡の上に葬ったと、日本書紀はしるす。陵墓一隅抄などにその所在がしるされ、当地で塚穴と称されていた古墳(上円下方墳、一辺約45メートル)が来目皇子の墓に比定され、宮内庁によって管理されている。来目皇子の薨去後の顛末は日本書紀にしるされている。来目皇子の後任として征新羅将軍に任じられた当麻皇子。皇子は新羅に向かったが、妻舎人姫王が明石で薨じ、そのまま大和に引き返し、再び出征することはなかった。対新羅政策は、ヤマト王権の海外進出にともなって生じた最大の課題であり続けてきた。加えて、筑紫は早くからヤマト王権と宗像一族との親密な交流があったとみられるものの、磐井の反乱に象徴される独立国的な色彩が消えてはいなかった。当麻皇子の帰参、出撃の中止なども国内の政治状況下での判断であったのかもしれない。しかし、日中の外交文書に残る推古天皇の摂政聖徳太子の外交は、隋の皇帝煬帝の朝鮮半島への野望を揺さぶるものであった。国軍など統治組織が未成熟で氏族頼りの時代に、兄弟である来目皇子や当麻皇子を前線に送ってまでも新羅を討とうとした太子。煬帝の得心に反するばかりか、帝国内外の属国の常識を超えたものであったろう。太子の薨去後、数十年を経た西暦663年、日本は、白村江において唐と新羅の連合軍に狙撃され大敗を喫し、半島から叩き出され、その後の朝鮮半島政策に大きな影響をこうむることになったのである。炎天、燃えるような日、蝉の声が寄せてはひく怒涛のように聞こえる。その潮音に涙する皇子こそ、志摩半島の高みから玄界灘をのぞむ病を得た来目皇子であったにちがいない。
・・・「来目皇子の墓」は、完全に羽曳野丘陵の上に位置している。
以上のことから、冒頭の地図ならびに画像の「②」位置からは「二上山」方面を眺めるのに適してはいるが、到底「難波宮」を見ることすらできない。
したがって、「難波宮」を振り返る位置としては、「竹内街道」が南北に折れ曲がる前の「①」位置が妥当であると思われる。そして、この近辺で「坂」として記録に残っているのは「五軒家の坂」であり、それは「竹内街道わらべ歌」の中に記されている。