東高野街道(13) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(13)


「三田家住宅」からさらに北に進むと・・・



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寺田家住宅

宝永元年(1704年)の大和川付替え以前に、現在の藤井寺市北条町より柏原市今町に移住し、江戸時代は「北条屋」の屋号で、庄屋兼油かす問屋や柏原船の船主を営んでいた。敷地は東西に長く、この地域では一番大きな屋敷であろう。西側は旧奈良街道に面し、東側には道路(路地)とJR大和路線が通っている。敷地中央付近を水路が南北に貫き、その東側が一段高くなっている。これは旧大和川の左岸堤防のすそのに当たり、移住当初はこの水路までが敷地で、その後、大和川の付替えによって出来た新田を購入し、現在の敷地になったと思われる。建物の配置は西側の旧奈良街道に面して「主屋」が建ち、敷地中央を東西方向に敷かれた石畳により、一段高い部分にある「離れ屋」と繋がる。石畳の北側には土蔵、茶室が並び、南側には長屋門、土蔵が並んでいる。「主屋」は桁行九間、梁行六間、つし二階建てで切妻造りの本瓦葺き、建築年代は、『河内の郷土文化』によると、明和元年(1764年)とある。「離れ屋」は桁行七間梁行三間半、それにT形に続く増築部が桁行六間半、梁行三間の切妻造りで桟瓦葺き、建築年代は不明であるが、「主屋」と同年代であると思われる。この「離れ屋」は、明治23年(1890年)4月に明治天皇が大阪・奈良を行幸した際、皇后一行が「御昼所」の本陣とした建物で寺田家の敷地に近接して仮の乗降場が設けられ、直接鉄道を利用して入退場された事が知られている。


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「寺田家住宅」のすぐ隣が・・・


■柏原神社

入口には注連柱、参道脇に「村社柏原神社」と記された社号標、参道途中に鳥居が立ち、境内の途中に小川が流れ、神橋と石段参道があります。お話によると境内前面は旧大和川の河床だったようで、この段差が河岸段丘跡なのだそうです。参道左に境内社、神輿倉、右に神楽殿が配され、中央奥に社殿が建立され、その中に本殿が安置されています。神輿倉の中には古い神輿が置かれていますが、現在は担ぐこともなくなったそうです。創建年月は不詳ですが、お話によると1700年頃に滋賀県の白髭神社からの勧請かと思われます。この社の御祭神は宇迦之御魂神ですが、滋賀県・白髭神社の御祭神は猿田彦命です。「大阪府全志」にこの社の由緒を「創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せしを、明治十三年信徒の協議に依りて当所へ遷座。無格社なりしも、泉北郡向井村の村社若林神社「天照皇大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀するとともに村社に列し、更に志紀村の稲荷神社「倉稻魂命」を合祀。」とあるようですから、元々の御祭神は白髭大明神でしたが、明治期の合祀後、何時の頃か、稲荷神社の御祭神・倉稻魂命が主祭神となったのかもしれません。


・・・写真を見てもわかると思いますが、横の寺田家の方が大きいかもしれません。そろそろ「奈良街道」と別れて、「東高野街道」にもどりたいと思います。


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「柏原駅」を越えて、商店街を東へと向かいます。


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なんと、こんなところにも「赤丸ポスト」がありました。


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商店街を出た交差点の角にも・・・恐るべし「オガタ通り」です。