東高野街道(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

東高野街道(8)


松永白洲記念館を出て、北に向かうと・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やま1


■大和川

奈良県北部を西流する川。源を大和高原南西部の桜井市大字小夫(おぶ)地先に発し、奈良盆地を南東隅から北西流し、大和郡山市額田部南町付近で佐保川と合流する。近年までこの合流点より上流を初瀬川とよんでいた。ここから西へ流路を転じ、寺川、曽我川、富雄川、葛下川など盆地内の諸支流を集め、奈良、大阪の県府境を南北に走る生駒、金剛両山地の亀ノ瀬峡谷を先行性河川として横切り、柏原市で大阪平野に流入する。さらに石川、恩智川などの支流をあわせ、堺市の北で大阪湾に注ぐ。延長67キロメートル。宝永年間(1704~11)まで大和川は柏原市より北へ流れ、大阪城の北東部で淀川に合流していた。古来、奈良盆地と大阪平野を結ぶ重要ルートで水運が利用され、近世奈良の魚梁船、大坂剣先船が活躍したが、1892年(明治25)大阪鉄道の開通によって姿を消した。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やま2


かつては生駒山系を抜けて現在の柏原市付近で石川と合流すると、その流れに乗るように北へ流れ、河内平野に大きな湖(草香江(くさかえ)、または河内湖)をつくって古い時代の淀川を合わせ、上町台地の北で海へと出る流路を為していた。河内湖は次第に土砂により埋まり、河内平野へと変わっていったが、基本的にはこの一帯は上町台地にさえぎられた低い湿地帯であり、江戸時代までは大和川の分流や多くの池を残していた。



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やま4


江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川(久宝寺川ともいう、本流)・楠根川・玉串川(吉田川と菱江川に分流)など幾筋にも分かれ、吉田川など一部は寝屋川が注ぎ込む深野池(大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいた。これらの池の水と長瀬川本流は現在の大阪市鶴見区放出周辺で合流し、さらに淀川支流の古川、同じく河内平野を流れる平野川と次々合流しながら上町台地の北(現在の天満橋の辺り)でやっと淀川(大川)本流に合流していた。淀川はそこからまた安治川や木津川など多くの川に分かれ、デルタ地帯を形成しながら海へ流れていた。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やま5


これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあった。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代に遡る。度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のように堺に向け西流するようになった。


・・・松永白洲記念館で伺った話によると、船橋村としては大和川付け替え反対で、その請願古文書も残っているということでした。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やま3


【参考】船橋遺跡・船橋廃寺

道明寺東小学校区内の北條町・船橋町の北部を中心として展開する広大な遺跡で、東西約1.3km、南北約1.2kmの範囲に遺跡が広がっていると推定されています。遺跡の中心部と考えられる場所は、大和川の河床部分にあります。


・・・それでは、「新大和橋」を歩いて渡ってみましょう。