東高野街道(7)
これまでにも、藤井寺郵便局と綾南町5丁目の「赤丸ポスト」を紹介しました。今回は、林3丁目に続いて・・・
小山7丁目の「赤丸ポスト」です。これで藤井寺市は、計4本です。
・・・さあ、急いでもどりましょう。
■黒田神社
『延喜式』に掲載されている式内社で、古い歴史を持つ古社ですが、その由来については不明です。現在は、天照皇大神、天御中主神など、六神の祭神が祀られています。また、境内社として、天押雲根神社、八幡神社、稲荷神社、恵比須神社があります。境内には江戸期以前の鳥居や燈籠がいくつかありますが、古くは1372年(建徳3年)の銘が入った石燈籠が1基あります。江戸期の書物『河内鑑名所記』では、一名「北條天神・志紀の天神」とも呼ばれたことが紹介されています。また、『河内志』では「在北條村今称天神」とあり、『河内名所図会』では「此地の産土神とす」とあります。1907年(明治40年)、近隣のいくつかの神社を合祀します。南隣りの国府村の村社・国府八幡神社、東の船橋村の村社・大山咋(神社、西の大井村の村社・志疑神社、現柏原市の春日神社、塩殿神社、現八尾市の御劔(みつるぎ)神社、寶殿神社を合祀しましたが、後にその多くは元の地で再度祀られています。この内、塩殿神社は昭和44年(1969年)、黒田神社の分霊を春日神社の祭神と共に合祀し、黒田神社の分社として柏原黒田神社と改称されました。境内には、元禄2年(1689年)の銘の鳥居があります。また、安永4年(1775年)、嘉永7年(1854年)作の常夜燈のほかに、建徳3年(1372年)の年号と多数の寄進者の銘のある石灯籠があり、南北朝の動乱で荒れた黒田神社が、この時期に再興されたことが推察されます。黒田神社は、旧志紀郡北條村に属する元村社でしたが、現在は北條町と林5・6丁目(道明寺小学校区)の両地区の氏神となっており、例祭は10月9日です。黒田神社は古い歴史を持つ北條村の村社でしたが、神社は村の集落の中や接した場所ではなく、集落から南方に離れた水田地帯の中にありました。境内の敷地はかなりの広さを持っており、多くの木々が茂っていたので、周りからはよくわかる存在でした。戦後すぐに撮影された空中写真を見ると、まるで島が海に浮かんでいるように、黒田神社の森が水田地帯の中に見えています。実は、黒田神社の境内はもともともっと北の方にあったものが、江戸時代に今の場所に移転してきたと言われています。現在、北條地区の北にある大和川が柏原市との境界になっていますが、黒田神社のもともとの氏地は大和川の向こうの柏原市中心部にまで及ぶ広いものでした。1704年(宝永元年)の大和川の付け替えによって北條村の村地が大きく削られ、黒田神社の氏地も分断されました。この時に黒田神社は移転したようです。広い敷地を確保するためには、集落から離れた今の場所が適地とされたのでしょう。
・・・一度は訪問したいと思っていましたが、とうとう実現しました。
■松永白洲記念館
江戸時代に建てられた河内の民家をそのまま利用し、書道家故松永白洲氏の遺作が展示してあります。松永氏は大正2年羽曳野市に生まれ、教職の傍ら地元に密着した書道家として日展、毎日書道展、全関西美術展など入選多数。開館は土・日・月曜日の午前10時~午後4時です。
・・・現在、息子さんが記念館を運営されています。幸い、いろいろとお話をうかがうことができました。
教職についておられたという意味では私の大先輩であり、その遺志を継いでおられる息子さんの想いは、今の私に重なるものでもありました。
この「街道めぐり」は、自分探しの旅であると自覚していますが、このような出会い・発見があり、ますます足が軽くなる想いです。