吉野(7)
サクラなんて・・・どこにも無い。
ようやく、ここまで登って気づいた・・・「花見」とは「修行」だと。
■西行法師
鎌倉初期の歌人・西行法師ほど吉野の桜を愛した人はいないだろう。23歳で出家した西行はさまざまなところに庵を構えたが、春の日の多くを吉野での日々に費やした。
なにとなく春になりぬと聞く日より 心にかかるみ吉野の山(『山家集』1062)──なんとなく春になったと聞いた日から、心にかかることだ、吉野の山が。
吉野山こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき(同66)──吉野山のこずえの花を見た日から、心は身から浮かれ出てしまったよ。
西行がほんとうに吉野に庵を結んだのか、史実としてははっきりしていないが、いつ頃からかその庵跡が伝わり、江戸時代の松尾芭蕉もその跡を訪ねている。今も奥千本の桜の木に囲まれた小さな平地に西行庵が残され、中に安置された西行像が静かに花のこずえを見つめている。桜は西行にとって単なる春の花ではなかった。
仏には桜の花をたてまつれ 我がのちの世を人ととぶらはば(同78)──仏には桜の花を奉ってください。私が死んだのちの冥福を誰かが祈ってくれるなら。
心を浮遊させ、仏の境地へと誘う桜の花。西行は死後の導きも、桜に託した。三世を守護する蔵王権現の息を吹きかけられた吉野の桜は、現世だけでなく来世までも約束してくれる、そう西行は信じていたのかもしれない。
■修行道大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)
吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場・修行道大峯奥駈道の北端にあたります。7世紀(飛鳥時代)に活躍した呪術者・役小角は、葛城山(金剛山・大和葛城山)、大峰山で修行を重ね、金峰山(大峰山系)で、金剛蔵王大権現を感得し、この地に蔵王権現を本尊とする金峯山寺や修行道である大峯奥駈道を開いたとされています。大峯奥駈道は、南端の熊野を発して吉野に至るのを順峯といい、北端の吉野から熊野に至るのを逆峯と呼びました。
■靡(なびき)
途中には神仏が宿るとされる拝所・行場が設けられ、これらは靡、古くは宿と呼ばれ、多い時は120宿があったといいますが、近世に75の靡となりました。そのうち吉野山は6つの靡の範囲となります。
・75靡「柳の宿」柳の渡し(美吉野橋)付近
・74靡「丈六山」吉野神宮辺り。かつては丈六山一の蔵王堂があったとされます。
・73靡「吉野山」銅の鳥居や金峯山寺蔵王堂など。
・72靡「吉野水分(子守)神社」
・71靡「金精大明神」金峯神社
・70靡「愛染宿」吉野の奥の院(安禅寺)とも呼ばれました。明治初年まで寺院宝塔があったとされています。