吉野(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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吉野(5)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ら1


八咫烏(やたがらす)

役小角が分け入って蔵王権現を感得したという吉野。奈良の都からはるか熊野まで青々と続く紀伊山地の入り口にあたり、そこは人間世界の外、神々の棲む場所、そんな認識があったのかもしれない。『古事記』『日本書紀』では、神武天皇が九州の高千穂から天下を治めるにふさわしい場所を求めて大和へ入るとき、八咫烏(やたがらす)の導きで熊野から吉野川に至る。下流では川魚を捕る「国つ神・贄持之子(にえもつのこ)」に出会い、その先では光る井戸の中から尾の生えた「国つ神・井氷鹿(ゐひか)」に会い、さらに山に入ると、また尾の生えた「国つ神・石押分之子(いわおしわくのこ)」が岩を押し分けて出てきた。新しい支配者として外からやってきた神武天皇に対し、これら国つ神とはもともとこの地に棲む神のことを指す。ここにある光る井戸とは水銀抗のような坑道の比喩であるとも言われ、岩石を押し分けて出てきた神は、洞窟生活者、もしくは鉱山師のイメージがあると指摘される。尾が生えているというのは、木こりや鉱山師が付けていた動物の皮を使った尻当てであるとか。だとすれば、単に神の棲む山というよりは、豊かな鉱脈を持つ山として相当に古い時代から吉野は特別視されていたことがわかる。彼ら国つ神は戦うことなく神武天皇を迎え入れた。吉野の聖性をさらに高めるのは、その豊かな水量だろう。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ら2


2本目の赤丸ポストを発見しました。


【参考】ヤタガラスの三本足の意味には諸説ある。古事記や日本書紀には三本足であるとは明確に記述されていない。中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽に棲むといわれる。古来より太陽を表す数がとされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など、太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説である。なお、前述のように記紀には八咫烏が本足だという記述はなく、後世に中国や朝鮮の三足烏と同一視され、本足になったともいわれる。ヤタガラスは元来は八田(八旗、八幡)のことであり、八田は八幡宮を創建し、同系列の神社を全国各地に建てていった秦氏の代表的な姓であることから、「秦氏の名前と天皇(大王家)を裏からあやつる烏のイメージを掛け合わせたもの」とし、神話伝承の類似性から賀茂氏と高句麗王族を結びつけ、秦氏は高句麗王族の血を引くとし、これらの高句麗系渡来人と高句麗の建国神話に登場する三足烏との関連や、その渡来氏族自身の朝鮮半島からの東遷に深いつながりがあると推測する説もある。さらに、秦氏はユダヤ系の血を受け継いで文化も継承しているとしている説(日ユ同祖論)もある。

現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられている。これは、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の漢文学者であり、日本サッカー協会の創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏をデザインした物であり、1931年に採用された。


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ヤタガラスではなくクジャクを発見しました。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ら4


それぞれの寺院・宿坊がディープな工夫を凝らしていて、見飽きることはありません。


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竹林院庭園「群芳園」

大和三庭園のひとつとなっている竹林院庭園「群芳園」は、豊臣秀吉(豊太閤)が吉野山の桜の花見に際して千利休が作庭し、一説には細川幽斎が改修したといわれている池泉回遊式の借景庭園です。春は見事なしだれ桜が池の中央に咲き乱れ、夏は美しい緑に囲まれ、秋は色鮮やかな紅葉、そして冬には雪が積もり、凛とした静謐な空気が澄み渡るのを感じていただけます。遠く吉野の山々、蔵王堂を見はるかし、四季折々の鮮烈な美しさを間近にしながらそぞろゆくのも他では味わえない醍醐味のひとつです。

そもそも竹林院は椿山寺(ちんざんじ)と称して、聖徳太子建立の一寺と伝えられ、古来より、 修験道に努める山伏の宿坊として利用されました。豊臣秀吉や与謝野晶子など、数多くの文人墨客の宿としても愛され、昭和56年には昭和天皇皇后両陛下御宿泊の栄を賜った歴史を持ち、今に至るまで広く親しまれてまいりました。揺るぎない伝統を肌で感じながら、あたたかいおもてなしに身をゆだねる。日本の心に還る和やかなひとときを、ぜひご体感ください。敷地内にたつ西行碑には「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの花をたづねん」という歌がしるされています。吉野の桜を愛した西行が以前に来たときの道しるべを付けていたが、また違う道を選び、違う景色の桜の花見を楽しもうという、吉野を訪れるのをとても楽しみにしていた様子が想像できる歌です