竹内街道(21) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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竹内街道(21)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-しなが


小野妹子のお墓の横が・・・


科長神社

平安時代の「延喜式」に記録された「式内社」と呼ばれた由緒ある神社。二上山にあって風の神「級長津彦命」を祀っていたが、この地に遷座されたという。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-すいこ

山田高塚古墳

推古天皇に治定され、陵墓名は磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)。「山田」は古墳のある地名に由来し、地元住民から「山田古墳」と呼びなわされていたと言われる。「高塚」は、方墳の古墳形が盛土により築造されていることに由来する。

日本で初めての女帝である第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせました。 推古天皇陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられています。太子町には、同様に1つの墳丘に2つの石室をもった古墳として、西約500メートルに位置する葉室塚古墳や南東200メートルの二子塚古墳が知られています。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ふたご


■二子塚古墳

推古天皇陵の南東200メートルに位置する二子塚古墳は、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有しています。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰を充填塗布しています。また蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められています。地元には本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあります。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ろく4


・・・ようやく「竹内街道」にもどってきました。


■六枚橋

昔、この橋は6枚の板を渡して橋としており、その数は「南無阿弥陀仏」の6文字になぞらえたものだとか。ちなみに橋を渡る人からは通行料をとっており、三途の川の渡し賃にちなんで、六文銭だったとか・・・。どこまで本当の話かわかりませんが、歴史が長いといろんなお話が生まれてくるものです。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ろく5


このあたりからグッと勾配がきつくなってきます。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ろく6


■餅屋橋

竹内街道は、たくさん旅人が行き交う道でしたが、もちろんその中にはいろんな人がいます。現在のような恵まれた時代でなかった頃には、お腹がすいて、行き倒れになるような旅人もいたそうです。特に上り坂に差し掛かって、いよいよ峠越えというようなこのあたりでは、そんなことも大きな心配ごとだったでしょう。しかし、ここで行き倒れられると、村で面倒を見なければならないという事態が起こってしまいます。そこで、ここで餅を配って腹ごしらえをさせて、一気に峠を越えさせてしまおうということで、餅の振舞いをしたのが、餅屋橋の名の由来だという話があります。