竹内街道(18)
■河内飛鳥(かわちあすか)
現在の大阪府南河内地区の羽曳野市東部・太子町辺りを指す地域の通称。この辺りには古墳時代から飛鳥時代にかけての歴史的遺構・史跡が数多く残されている。大和国(奈良県)の飛鳥と区別するために、「河内」を冠される。また、「近つ飛鳥」とも呼ばれる。この場合の「近つ」は、大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)と比較し、都があった難波宮や難波津(大阪市中央区)から見て、近いか遠いかによる説が通説となっているものの、推古天皇が崇峻5年(592年)に即位して都が大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)に移されたころに、大和朝廷を支えた有力豪族である蘇我氏が元々の地盤である河内地方から大和国の飛鳥に移住したことから、河内国の飛鳥地方が後から「近つ飛鳥」と呼ばれるようになったという説・主張もある。狭義の河内飛鳥の地域は、大和川、飛鳥川、石川の3川に囲まれた、竹内街道沿道周辺一帯(安宿郡駒ヶ谷)を中心とする地域とする文献があるが、広義には東は二上山の麓から南は石川郡の一部(河南町の大半)の広い範囲も含まれる。太子町大字太子から大字山田にかけての谷間は、聖徳太子御廟、孝徳天皇陵(上ノ山古墳)、小野妹子の墓、推古天皇陵(山田高塚古墳)などといった有力者の陵墓が集中し、通称「王陵の谷」ともよばれる。
・・・ということで「上ノ太子」駅に行く前にちょっと寄り道。
赤丸ポストから山手の方へ上っていきます。
■安宿部郡(あすかべのこおり、あすかべぐん)
かつて河内国・大阪府にあった郡。古代には「飛鳥戸郡」や「飛鳥部郡」、中世以降は「安宿郡」や「安福郡」とも表記された。現在の柏原市の南部(旧 国分村・玉手村)に相当し、古代には現在の羽曳野市の東部(駒ヶ谷・飛鳥地区)を含んでいた。『和名抄』には、賀美・尾張・資母の3郷が記載されている。1878年(明治11年)の郡区町村編制法では、志紀・安宿部・古市・石川・錦部・丹南・八上7郡合同の郡役所が古市郡古市村(現:羽曳野市古市)に置かれたが、1883年(明治16年)、石川郡富田林村へ移転した。1896年(明治29年)4月1日、これら7郡が統合されて南河内郡が設置され、郡役所は引き続き富田林村に置かれた。
・・・鳥居をくぐって・・・
■飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
羽曳野市にある神社で式内社(名神大社)、旧社格は村社。現在は素盞嗚命が祭神となっている。これは、江戸時代に牛頭天王が祭神となっていたため、神仏分離の際に素盞嗚命に改めたものである。当地は5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であり、本来は飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたものと考えられている。『三国史記』百済本紀には昆伎王は熊津時代の始めに百済で没したとあり、昆伎自身は帰国したとしても、その子孫が日本に残留したものと考えられる。なお、付近にある新宮古墳群(横穴式石室)は飛鳥造氏族の墓域とされる。『河内国式神私考』では「安宿王」、『河内国式内社目録稿本』では「百濟氏祖神 俗称少名彦命」、『神社要録』では「百済氏祖神 名詳ならず」と記している。創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。国史の初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)8月13日条、正四位下の神階を授けるという記述である。延喜式神名帳では「河内国安宿郡 飛鳥戸神社」と記載され、名神大社に列している。江戸時代までは神宮寺として行基が開基した常林寺があり、聖武天皇の勅願所とされた。明治初年に村社に列格したが、明治41年(1908年)に近隣の八幡神社(現 壺井八幡宮)に合祀された。昭和27年(1952年)に分祀され、旧社地の近くに再建された。
・・・さらに、上って行きます。
■飛鳥部 奈止麻呂(あすかべ の なとまろ)
奈良時代の官人。氏姓は安宿公・百済安宿公・飛鳥戸造・安宿戸造とも。名前は奈登麻呂・奈杼麻呂・奈止丸とも。官位は正五位上・出雲掾。飛鳥部氏は河内国安宿郡を本拠とするとみられる渡来系氏族で、『新撰姓氏録』では百済の第24代王である末多王(東城王)の末裔とする。長門介・飛鳥戸小東人の子とする系図もあるが、確実なことは不明。天平勝宝8年(756年)に彼宅を訪れた安宿王は関係者と思われる。『万葉集』にも歌があり、藤原仲麻呂の乱の陰謀に加担していたともいわれる。天平神護元年(765年)正六位上から外従五位下に昇叙されている(この時の氏姓は百済安宿公)。死後に娘の百済永継が桓武天皇の寵愛を得たためか、子孫は百済宿禰の氏姓賜与を受けた。
■飛鳥千塚
古墳時代の後期(6世紀)に造られたこのあたりの古墳は、「横穴式石室」と呼ばれる埋葬施設を持つ。すなわち古墳の埋葬部分が、自然石を加工して積み上げた玄室(げんしつ)と呼ばれる死者を安置する大きな部屋と、その玄室への通路となる羨道(せんどう)で構成されている。
・・・ところが7世紀になると、横穴式石室とは違ったタイプが出現する。「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」と呼ばれるもので、石室より狭い石槨に、横から木棺を納めるようになっている。それが観音塚古墳である。
・・・周囲は、すべて葡萄畑である。
■観音塚古墳/羽曳野市飛鳥字観音塚
鉢伏山から派生する尾根に築かれた直径12m、高さ3mの円墳です。埋葬施設は前室と羨道を有す切石造りの全長7mの横口式石槨で南に開口しています。前室の奥に横口式石棺を取り付けた珍しい形式です。石槨内法は長さ1.93m・幅0.92m・高さ0.78mで床面の4周には溝が巡ります。前室は長さ2.45m・幅1.44m・高さ1.66mで両壁とも切石で垂直に築かれており、天井部の前面には切石が斜めに渡してあります。また前室入口には切り込みがあり扉の存在が予想されています。石材の隙間には漆喰が塗られています。羨道部は長さ2.28m、幅1.44mで、西側壁の方が少し長く、幅はほぼ前室と同じ大きさです。古墳の被葬者として飛鳥戸造一族の中で7世紀前半に死去した族長と考えられています。築造年代は7世紀前期。古墳の案内板によれば、この古墳は新しい埋葬施設である横口式石槨を代表する古墳とされている。石槨(193×92cm、高さ78cm)は、付近で採れる安山岩を丁寧に加工して切石とし、これを精巧に組み合わせて造られている。さらに石槨の前には前室(245×144cm、高さ112cm)と羨道(長さ227cm)が付くという特異な埋葬構造になっている。案内板には、前室で死者と別れをする様子が描かれている。
【参考】横口式石槨
古墳時代の最後に登場した埋葬施設です。横穴式石室では羨道の奥に「部屋」があるのに対し横口式石槨では、お棺を納める「石槨」が取り付けてあります。おそらく前者が多葬を目的としたのに対し、後者は基本的に特定個人の単葬を目的とした物であったのでしょう。この横口式石槨は7世紀後期、横穴式石室の小型化に合わせる様に出現し、主に近畿の支配者層の古墳に採用された埋葬施設です。その構造は、石棺様施設の短辺側の一方に横口を設け、さらにその前に羨道などを取り付けたものになっています。九州や山陰地方の石棺式石室と共通の要素を持ちますが、石棺様の施設の中にさらに木棺や乾漆棺を納めるもので、内部には棺を納めるとほとんど余分な空間がなくなるものが多いところから、石棺式石室とは明らかに系譜を異なる物として区別されています。こうした前室や羨道をもつ古いタイプの横口式石槨の分布中心が百済系渡来人の多い大阪府の河内南部、旧安宿郡内にあること、百済末期の古墳のなかに石槨様の玄室の前面に玄門を設け、羨道をつけた石室がみられることなどから、百済古墳の影響を受けて成立したものとの考えが有力です。しかし一方では高句麗古墳にも同様の形態を持つ古墳も確認されていますので、朝鮮半島の墓制の影響下で成立したにせよ、その起源については未だ明らかではないようです。
・・・感動のあまり、古墳石室内部から景色をながめてボッーとしてしまいました。悠久の歴史が静かに流れていきます。




