オッタマゲーロ(21)
■ガール石/生名島
長崎瀬戸をはさんで広島県境にあり、因島・弓削島・岩城島・生口島に囲まれた自然の豊かさがいっぱい残っている小さな島。立石山の頂上からは360度の大パノラマが広がり、しまなみ海道が見渡せる絶好のビューポイント。自然を生かした宿泊施設が完備され、スポーツ村として脚光を浴びています。その昔、中から蛙の声が聞えてきたという不思議な言い伝えが残る石。石を割るとたたりがあり、血が流れ出してくると住民から恐れられました。この石は島の南西部に位置しており、このあたりは石にちなんで『蛙石(が~るいし)地区』と呼ばれています。
■蛙岩/滋賀県大津市石山南郷町
瀬田川おう穴地帯にある花崗岩の大岩でかえるの後ろ姿によく似ています。
■長崎・水神社「河童石/どんく(蛙)石とも呼ぶ」
長崎市に古くからある由緒正しい神社である。水神社は、本河内水源地の下の方にあり、神社の前には長崎市の真ん中を流れる中島川が見える。境内の奥にある鳥居の脇に、河童石と呼ばれる苔むした石がある。神社境内の高札には、「河童石は川立神の宿る霊石であり、この神社が大正時代に八幡町から引越しをしたとき、ここに移転した」と、記されて第二次世界大戦末期、応召する前夜、秘かに水神社に詣で、無事の帰還を祈って、この石の頭を撫でた兵士は多く、当時から、すでにつるつるになっていた。渋江宮司によれば、「長崎港を出る船は、五島沖で敵国の潜水艦の餌食になることが、多かったんですよ」昔、雨水だけが頼りだった時代、日照りが続き動物も植物も生きてゆけなくなると、雨乞いの行事が、この神社で行われ、神官は石に生えている苔の色で降雨を占ったという。中島川は、昔は清流で、人々はこの水を飲んだり煮炊きに使ったりして、生活していた。ところが人家が増えるにつれて、次第に水は汚れてきて、清流を好む河童はもはや住めなくなった。彼らは人家に出没し、うさをはらすかのように悪さをするようになった。昔から神社では、川を汚さぬように、役所に願い出るとともに、毎年5月の吉日を選んで、河童を招待して、一晩中ご馳走を振舞う珍しい行事があった。「その日は、拝殿の入り口をぴったりと締め切ってしもうて、中では河童どもが、たらふくご馳走を食ったそうじゃ。神官には河童の姿は見えたとじゃが、誰にも見えん。河童達のきいきい声や、皿の音だけが外に聞こえたということですたい」タケノコの料理は、必ず出されたそうな。神官の皿には採れたばかりの柔らかな所を、河童達には、育ちすぎてカチカチになった古い所を、輪切りにして盛りつけてあった。神官がうまそうに食べるのを見とった河童どもは、いっちょん食べきらん。“はあー、人間の歯の強かこと!”と、敬服して帰るのが常じゃった。バッテンそれからはもう河童はいたずらをしなくなった。そればかりか、客が来るときや、神社の祭りがある前の晩に、河童石の上に、神官が“あしたは、こげんご馳走をするけん、野菜のxxや魚を用意しなさい。”と、書き置くと、次の日には、その品物が乗せられておったということですたい。
九州弁で「山川どんく」と言う言葉があります。どんくとは蛙のことで、ひねくれ者の蛙がいて、母蛙が山に行けと言ったら川に行き、川に行けと言ったら山に行くので、母蛙が死に際に山にいけろと言ったら川にいけられるので、川にいけろ言ったら山にいけてくれるだろうと思って川にいけてくれと言って亡くなった。ひねくれ者の蛙は母の最期の言いつけだけは素直にきこうと、川にいけました。ところが雨が降って母蛙が流されたので、どんくは雨が降ると母が雨で流されことを思って泣くそうです。
長崎地方の方言で蛙をドンクと言います。そのドンクが繰り広げる噛み合わないおかしさ滑稽さ。「長崎と網場(あば)の境に日見(ひみ)峠があります。両方から登ってきた蛙が峠の頂上で出合い、自分の目が後ろに付いている事を忘れ、反っくり返って今見ている自分の故郷を、相手の街と勘違いし、さんざんその街をけなして自分の街の方がイイと言ってしまったのです」。この逸話から、論議にならない論や、見当外れの事を「長崎ドンク、網場ドンク」といって笑い飛ばします。