くすっ(89) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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長浜(2)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-がら1


■黒壁

明治時代に第百三十銀行長浜支店として建築され、その外壁が黒漆喰の様相から『黒壁銀行』『大手の黒壁』の愛称で親しまれていた建物を、その保存と中心市街地の活性化の拠点としての活用を目的に、民間企業より8名の有志が集い、長浜市の支援を受け出資総額1億3千万円で、昭和63年4月、第3セクター株式会社を設立しました。建物の修復と復元を進める中、郊外型大型店舗の進出により、400年の歴史を持つ中心商店街の長年に亘る沈黙と低迷からの脱出と活性化の起爆剤となるべく、伝統地場産業にとらわれない、また3セクであることから、既存民業を圧迫することのない、長浜から全国へ、情報発信足りえる事業を模索します。また、郊外中央資本の大型店舗の脅威にさらされない、住み分けできる町としての建物、風情を含めた『歴史性』、祭りを含めた『文化芸術性』、そして世界を視野に入れた『国際性』、この3つのコンセプトを内在した事業を捜し続けます。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-がら2


当時、国内大手ガラスメーカーを除いては、多くが、個人作家活動の域もしくは土産物の域を出ていなかった『ガラス』に着目、黒壁は本物のガラス文化の追及と事業化による国内初のガラスの本場の創成を目指すこととなります。 はからずもガラスは、歴史性、文化芸術性、国際性の理念を内在していました。人が一人も通らない町に、現在では年間210万人(平成14年度)の来街者を、街をあげて迎えております。黒壁はガラスショップ、工房、ギャラリー、ガラス美術館、レストランなど10館(長浜市内)を直営。グループ館として黒壁まちづくりに参画する20館と共に、街の求心力を高め、理念の拡大と充実が『ガラス工芸とまちづくりを融合させた総合文化サービス業』を創生させました。黒壁ガラス、まちづくり、経営ノウハウ等多面にわたる実績と、永年受け継ぐ長浜人の進取をもって果敢に挑戦し、全国の疲弊した中心商店街再生の希望の礎となり、世界の歴史と対話しつつ、同時に未来に想いを馳せる企業として邁進してまいります。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-がら3


湖北は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉の天下統一への胎動のなかに巻き込まれていました。とくに長浜は、秀吉が一国一城の主となった最初の拠点であり、彼の城下町経営の基本パターンを醸成したところでもあります。


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織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。


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安土桃山時代から江戸時代は海北友松や小堀遠州などの湖北出身者が「中央」でその才能を開花させた時期であり、また江戸時代中期以降の発展する長浜町とその周辺地域で庶民文化を育んできた時期でもありました。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-がら6


黒壁美術館として、このように民家が維持保存そして・・・


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公開されていねのが・・・うれしい。