マグニチュード(7)
■週刊誌AERA臨時増刊 2011/4/10号
「東日本大震災 私たちはどう生きていけばいいのか-27人の提言-」
(解剖学者・養老孟司氏の言葉より)
「答え」はいつも目の前にある。見えていないのは「問い」の方だ。地震や津波は自然災害だが、福島第一原発の事故は完全な人災だ。
携帯電話には防水機能があるのに、原発の電源装置はなぜ水に浸かると使い物にならなくなるのか。その根本が私にはまったく理解できない。東京電力は電気が専門の「電力会社」だ。これは、ものすごい手抜きである。
原発が安全か危険かの議論をしている間に、本当の意味での安全性が「嘘」になっていたのではないか。議論そのものが肝心な作業を妨げていたと言ってもいい。もっと悪く言うと、原発の反対派も推進派も、結果的に両者が共同して手を抜いていたということ。私が政治を嫌うのは、そういうところである。われわれの生活に関係があることは、賛成か反対かというイデオロギーで考えてはいけない。
もっと悪く言うと、原発の反対派も推進派も、結果的に両者が共同して手を抜いていたということ。私が政治を嫌うのは、そういうところである。われわれの生活に関係があることは、賛成か反対かというイデオロギーで考えてはいけない。
大切なのはトータルで物を見る総合的な合理性である。そういう意味での「安心感」がない人が、非常に増えた。福島で起きたことは、部分合理性にしか目が向かなかった結果である。
この震災が自分に問いかけているものは何なのか。最後は、教育に行き着く。長い間、アメリカ式の問題解決型の教育になっていた。自然を見るということが理解されなくなってきた。
葉っぱはなぜ重なることなく配列されているのかと言えば、最大限の日照を得るためだ。その効率性はコンピューターで計算すれば何通りも答えは出るのかもしれないが、ともかく葉っぱは重なっていない。自然は初めから「答え」を出している。見えていないのは、なぜかという「問い」のほうだ。
人生は何のためにあるのかという質問に意味がないのは、人生はいろいろな問題に対する答えだからだ。頭で「自分の人生は何なのだ」と考えても、絶対に答えは出てこない。
震災をふまえた提言と言われると、ああすればいい、こうすればいいという話になる。それも、私からすれば根本から意見が違ってくる。千年に1度の大地震が起きた。その結果が目の前にある。けれども、被災者たち、われわれは、これからも生きていく。そのことに何ら変わりはない。
探すべきものは、「答え」ではない。この震災から「問われているもの」は何かということだ。