気まぐれ(7)
■木下晋
木下が北陸中日新聞に週1回、1年間(52回)に渡って連載した回顧録、1回600字の短い読み物ながら、なかなかの力作である。その中で、木下を見出した洲之内さんに触れている項目がある。ただし、1回限り。洲之内が木下に与えた影響力の大きさに比べ、1回は少ない。ここに木下の洲之内に対する屈折した「思い」をみる。木下は2007年2月11日付で次のように書く。
「(洲之内の)臨終の瞬間に立ち会った。正直言ってホッとする気持ちがあったことが記憶に蘇る。が同時に、もう絵を見てもらえる人物がいないという寂寥感は現在も埋めようがないのである。」
「そりゃ怖かったさ」―木下は何度も言っている。
■「洲之内徹の風景」(春秋社)
1987年、洲之内さんは74歳で死んだ。死後9年、1996年に追悼文集が刊行された。92人が書いている。白洲正子、米倉守、瀬木慎一、窪島誠一郎、野見山暁治、難波田龍起、大原富江ら。木下さんも書いた。「洲之内徹の視点」である。
「一読して驚くのは、物書きのプロではない画家たちの文章の新鮮さである。絵には『省略と誇張』が必要だが、画家たちの何人かは、文章作法でもこの秘密を会得しているように思われる。一時、新潟に住んだこともある木下晋は、洲之内との二十年近いつきあいを、わずか一日の描写で、みごとなまでに洲之内の本質に迫った」(1996年2月5日付、新潟日報の文化欄書評より)
「わずか一日」とは1980年のある日である。木下はニューヨーク在住30年の彫刻家S氏を洲之内に紹介するべく現代画廊に同行した。もちろん、事前のアポはとってある。しかし、画廊には「飛び入り」の先客がいた。
「私達は待機する羽目になってしまう。しかし、日本の滞在日程が短期間であるため多忙を極めるS氏は先客の用件が長くなる様子にシビレを切らし(中略)私を残し帰っていった」
先客とは、「人柄の良さを感じさせる」風貌の画家とその細君であった。「洲之内氏は私に気遣いながらも千枚はあろうかと思われる作品群の一枚一枚を手に取り、時間をかけて丹念に見ていった」
「二人は固唾を飲み洲之内氏の発する言葉を待っていた。そうした緊迫感に押し潰されそうになりながら、絵を見てもらっている至福の喜びを彼らは全身に漲らせている」
木下は居心地の悪さに耐えきれず「席を立った」が洲之内は一言「君も!」この言葉に木下は金縛りになった。
「結局その場から逃れることが出来なくなった」
続けて木下は書く。
「それにしても、自分の原稿締め切りやニューヨークから訪ねて来た客の約束を放り出して、まで見なければならない作品の正体とは何か」
木下は画家の絵を洲之内の背中越しにのぞき込む。
「作品の質は箸にも棒にもかからない。それでもなお、洲之内氏の視線は絵から離れようとしないのだ」
半ばあきれながら結局木下は「朝まで付き合わされて」しまう。
喜んで帰る画家夫妻を見送った。その後の洲之内との会話がすごい。
「君はどう思う…」と洲之内は問う。
木下は答える。「…ハッキリ言ってダメですね」
「そうか、…私もそう思う」
木下はこのエピソードを紹介し「執拗なまでの視線を行使する男、これが洲之内徹なのだ」と結んだ。この一文はまさに晩年の洲之内像を語って見事である。
「洲之内さんが死んでホッとした」
木下さんの言葉の重さが・・・よく分かる。
1日8時間もモデルを凝視しつづけ1ヶ月もの時間を費やし完成させる木下晋の光と闇、造形と表現、写真では絶対に表現できない心象とリアリズム、瀧口修三、洲之内徹、白州正子、木内克、麻生三郎、窪島誠一郎など、現代の美術界に於いて欠くことの出来ない面々をうならせた圧倒的なデッサン力。木下晋のペンシルワーク。
1947 年 富山県富山市生まれ、東京都在住
1963 年 自由美術家協会展( 東京都美術館)
1983 年 現代のリアリズム展(埼玉県立近代美術館)
1994 年 KEEN ギャラリー個展(ニューヨーク)
1997 年 池田20世紀美術館個展(静岡)
2004 年 六本木クロッシング展(東京・森美術館)
2006 年 佐喜眞美術館個展
2006 年 ギャラリーがらんどう絵本原画展(愛知)
東京大学工学部講師・武蔵野美術大学講師
2009 年 金沢美術工芸大学院博士課程千人教授
木下さんはしみじみと述懐する。
それくらい、木下さんは洲之内徹という人物を恐れていた。