おほっ(34) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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予言(9)

漉返紙(すきがえしがみ)とは、使用済みの和紙(反古紙)を漉き直して作った中古の和紙のこと。


・・・なんだ、そういうことか。


宿紙(しゅくがみ)・薄墨紙(うすずみがみ)・綸旨紙(りんじがみ)・紙屋紙(こうやがみ)・熟紙(じゅくし)・反魂紙(はんこんし)・還魂紙(かんこんし)など多くの異称を持つ。


・・・「反魂紙・還魂紙」???ちょっと気になるなあ。


和紙の原料は貴重品であり、近世以前には保管を必要としない紙は使用後に裏紙部分に再度筆記(紙背文書)したり、漉き直したりして再利用するのが一般的であった。ところが、漉き直しをした際に元の紙に付着していた墨を完全に取り除くことは不可能であるために、結果的に墨が溶け出して紙全体に付着して全体が薄墨色とも言える薄黒い鼠色に染まることが多かった。そのため、その色より薄墨紙と呼ばれたり、旧・久の意味を持つ「宿」や古の意味を持つ「熟」を冠して宿紙・熟紙とも呼ばれた。こうした中古の紙は新品の紙に比べて色黒で質が落ちるように見られていたため、光沢を出すために雁皮などを混ぜて高級感を演出した。


・・・そうそう、リサイクルは昔から行われてきた「文化」なのだ。


また、当時は親しい家族や友人が亡くなると、その人が書いた手紙などを紙背文書にしたり、漉き直しを行ってそこに写経を行うことで個人の供養を行う風習があった。こうした故人の文章が書かれた紙には故人の魂が込められていると信じられていたため、その上で写経を行うことで故人の魂が救われると考えられていた。そのために、反魂紙・還魂紙などの呼称が生まれたと考えられている。


・・・なるほどなあ、なかなか良いネーミングですよね。


更に、朝廷においては大量の不要な公文書が発生したために再利用のために和紙を製造する図書寮紙屋院で大量の漉き直しが行われていた。このため、紙屋紙という呼称が生まれた。紙屋院で再生された紙は再度朝廷において利用されたが、天皇の命令でも略式の命令であった綸旨や口宣案には貴重な新品の紙は利用できず、このため、漉返紙を代替品として用いた。ところが、それがいつしか有職故実となって定着し、逆に綸旨には漉返しされた紙を使用して作成するものとし、新品の紙を用いることは作法に反すると考えられるようになった。このために綸旨紙とも呼ばれた。なお、紙屋院のある京都から切り離された吉野朝廷(南朝)では、綸旨の書式に違わない為に新品の紙を作る際にわざわざ墨を混ぜて薄墨色にしたと言われている。なお、前代よりも和紙の大量生産が可能となった江戸時代に入ると、漉き直しの風習が衰えて墨を混ぜて染めた用紙を薄墨紙とか宿紙と呼ぶケースが一般的となっていった。


・・・わざわざ墨を混ぜるなんて、人間のやることっておもしろいなあ。


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■萩原朔太郎(1886-1942)

光る地面に竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

鮮烈なイメージと言葉のリズムで、日本語の詩の可能性を切り拓いた詩人。青年時代、朔太郎は近代の新しいメディアと西洋文化の奔流のなかで、立体写真や映画、マンドリン演奏などに傾倒。多彩な表現活動を行ないました。第一詩集『月に吠える』は、詩の革新性はもちろん、版画家・田中恭吉と恩地孝四郎との共同作業による画文一体になった美しい書物としても、近代詩において画期的な詩集です。

第二詩集の『青猫』以後、実生活での苦しい経験を経て、朔太郎の想像力は次第に日本の風景を荒れ果てた「地方」として眺めていきます。晩年の『氷島』では、帰るべき場所や未来への希望を見出せない自己の喪失感と、それを正面から受け止める力強い意志を漢文調の文体に込めて詠いました。 


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恭吉は絶対安静をつづけながらも「月映」にときおり死への緊迫感にみちたすぐれた作品の何点かを発表しつづけたが、その間、特筆すべきことは、のちに高名となるも、当時は全くの無名詩人であった荻原朔太郎からの処女詩集「月に吠える」のための挿画の制作の依頼であった。このもとめに対し生前の恭吉はこたえることは出来なかったが、死後恩地孝四郎の献身的な努力によってあつめられた遺作のなかから、恩地の選んだ数枚の挿画が「月に吠える」をかざった。詩集の発行されたのは一九一七(大正六)年二月十五日のことである。発行所は感情詩社と白日社で、初版五〇〇部、朔太郎による自費出版であった。


・・・「月映」


版画、詩雑誌。大正3(1914)年9月~4(1915)年11月恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄が同人。自刻木版画と詩のコラボレーションとも言える、すべて手作りの製本。田中は創刊直前に病んで郷里和歌山に臥し、大正4年8月病没するので運営はほかの二者による。彼らと親しい萩原朔太郎、室生犀星に通う人生派的象徴主義の傾向がみられる。