おほっ(33) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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予言(8)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-つくは1


田中恭吉「焦心」1914(大正3)年/木版、紙/20.9×10.0/和歌山県立近代美術館蔵


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-つくは2


田中恭吉さんのTシャツがあったはず・・・と探してみると、少しヨレヨレになっていましたがありました。ずいぶんと昔になりますが、和歌山近美に行った時、妙にひかれて購入したのでした。「五月の呪い」というタイトルです。


■寺山修司10代の遺作集「われに五月を」後記「僕のノート」より


この作品集に収められた作品たちは
全て僕の青年の所産である。
言葉を更えて言えば
この作品集を発行すると同時に
僕の内で死んだ独りの青年の葬いの花束とも言っていいだろう
しかし青年は死んだがその意識は僕の内に保たれる
「大人になった僕」を想像することは僕の日日にとっては
なるほど最も許しがたく思われたものだ。


■五月の詩・序詞 に

ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ。

■「われに五月を」の表紙をめくると

五月に咲いた 花だった のに
散ったのも 五月でした   母


とある。「五月」って・・・何なのだろうか?


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-つくは3


■田中恭吉(明治25年(1892年)4月9 日~大正4年(1915年)10月23日)

明治25年(1892年)、現在の和歌山市に生まれた。明治43年(1910年)に和歌山県立徳義中学校を卒業すると上京し、約1年間、白馬会原町洋画研究所に通う間に恩地孝四郎と知り合った。翌年に東京美術学校の彫刻科に入学すると、藤森静雄、大槻憲二、土岡泉、竹久夢二、香山小鳥などと交流を深める中で独自の表現を模索。初めて木版画を制作したのは大正2年(1913年)12月頃だと考えられている。藤森や大槻、土岡などと同人雑誌「ホクト」を手掛けたり、雑誌「少年界」や「少女界」に寄稿したり、回覧雑誌「密室」にペン画や、自刻による木版画いわゆる創作版画を発表するなど、美術と文芸の両方で才能を発揮した。その後、恩地との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯「月映」を刊行した。しかし大正2年頃に肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。その作品はムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。負担のかかる版画ではなく詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。大正6年(1917年)には萩原朔太郎の詩集「月に吠える」で恭吉の作品が取り上げられた。恭吉の作品や資料の多くは和歌山県立近代美術館に所蔵されている。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-つくは4


■『田中恭吉―生命の詩画―』著:上野芳久

 「田中恭吉は、主観の高揚を形象化するといった象徴主義を、大正初期の日本において極限的につきつめていった数少ない表現者の一人である。その意味において、大正初期の美術界においても象徴的な意味として、存在として浮き出ている。思想的には恩地とともに、白樺派ヒューマニズムの影響下にあったと思われるが、真に共鳴を示したのは朔太郎らに見られる内部意識の緊迫とした世界に対してであり、その意味では表現主義に近いといえる。(略)二十三歳という、あまりにも若い歳で夭折したこの表現者が、時代を越えて心を撃つのは、『生命感覚』ともいうべき、芸術の尊大な要素を深く捉えかえしていたからに他ならない。恭吉の場合、それが生々しく画像に出たために、衝撃を与えつづけているのだろう。」(72~73P)

 「(略)出会いは、朔太郎が恩地を介して、恭吉に自分の詩集の装幀を依頼するというように発展していった。とはいえ恭吉は、当時すでに和歌山に療養のため帰っており、直接に出会うことはついになく、恭吉は自らの装画による詩集を手にすることもなく去ったのであった。朔太郎にとって、恭吉との出会いは、ひとつの事件であったにちがいない。」(92P)

 「詩と絵の、不気味なまでの対応は、この詩人と画家の出会いが、底知れぬ交換と対応をもった関係であることをうかがわせる。(略)朔太郎が恭吉の絵を、恭吉が朔太郎の詩を、多分に意識して書いたのかと、おしはかってみたくなるほどだが、内部必然的に描かれるひとりひとりの世界が、共鳴されていく人間の精神の営みの深さに、あらためておどろくのである。」(94P)

「詩と版画、もしくは絵画が相乗的にその創作を高めあい、刺激しあって、明治から大正期にかけてのひとつの時代的な現象ともなったことは忘れられないことである。そのなかには西洋的な美意識の流入や、装本という作業のなかで、美術家も詩人も、そこにひとつの芸術的な所産を共有しようとしていたのである。いずれのジャンルをも超えて、詩、もしくは詩的というものが、美意識の希求において究極的なものとして渇望されていたと言うこともできる。」(161~162P)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-つくは5


■『和歌山県立近代美術館ニュース』67号(2011年9月)より

和歌山県近代美術館学芸員の井上芳子さんは「還魂紙のこと/誕生120年記念、恩地孝四郎・藤森静雄」と題して、田中恭吉が藤森静雄に贈ったペン画『そがれゆくぬくみ』の紙や、『月映』4号の『死によりて挙げらるる生』の表紙について書いておられます。漉返(すきがえし)という和紙とのかかわりを示唆する興味深い内容です。


・・・「漉返(すきがえし)」という和紙???