おほっ(28) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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予言(6)


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■2011年5月、高校時代の手紙見つかる/「俳句革命」説く

寺山修司(1935~83)が高校生時代、仲間に向けて呼びかけていた手紙が見つかった。俳句は、多彩な表現活動で先鋭的な創作を手がけた寺山が最初に頭角を現した分野。見つかった手紙は、寺山が10代に向けた伝説的な俳句同人誌「牧羊神」を創刊する直前に出されたものだった。寺山は青森高校3年だった54年2月に「牧羊神」を創刊した。その前年末、創刊同人の一人に「俳句革命」を誘う手紙を出していた。「来年は小生と大いに青春俳句のためにあばれましょう」「俳句革命運動を説き同志を獲得して欲しい」「最初にイズム(主義)の確立が必要」「十代の芸術派を押立てる」など、7枚にわたる。消印は53年12月31日。


手紙の宛先は、俳人の故・松井牧歌が沫名・寿男)。受験雑誌「学燈」に二人の俳句が掲載されたことをきっかけに文通を始めた。

 入選の句。

「冬凪や父の墓標はわが高さ」 寺山

「縄跳びの子らの貧富に霜ひかる」 松井 

松井さんは太宰に傾倒していて、太宰の本名「津島修司」と、「青森、寺山修司」を重ね合わせ、ひそかに親愛感を覚えたようである。


最初の書簡は53年8月。寺山は、早大に進学した翌54年には、月に何通も送り、東京で就職していた牧歌を句会に誘っている。寺山と同じ年に生まれた牧歌は2007年、寺山との交流を執筆途中に亡くなった。牧歌の遺稿を本にまとめる中で、寺山が送った30通の書簡が見つかった。それと一緒に、寺山が作った「牧羊神」結成時のメモも出てきた。「文責:寺山」とあるガリ版のメモは、「毎月100円の同人費で発行費用にあてる」「会員は毎月30円で雑詠欄に投句できる」など具体的だ。メモの「同人」欄には、青森高校の同級生で寺山と俳句の好敵手だった京武郎発さんを筆頭に松井寿男、寺山修司の順に名前が並ぶ。京武さんは「大阪の富田林高校にいる松井さんは、当時の高校生俳人の中で目立っていた。だから寺山も熱心に誘ったのか」と語る。寺山は54年11月、「短歌研究」誌の新人賞を受賞。まもなくネフローゼを発病し入院、この頃から文通は間遠になった。20代になった寺山の関心は演劇などに移り、56年には「俳句絶縁宣言」をする。寺山は83年に47歳で死去。亡くなる年にかつての俳句仲間と新たな同人誌「雷帝」を企画したが、寺山が生きている間に出版はできなかった。企画にかかわった俳人の斎藤慣爾さんは「人生最後の表現として、出発点の俳句を選んだ」と語る。斎藤さんは今回見つかった手紙について、「牧羊神すら散逸している現在、寺山の考えが丁寧にわかる貴重な資料だ」と話している。


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■寺山修司の「牧羊神」時代~青春俳句の日々/著:松井牧歌

青森高校生の寺山修司が全国の高校生に呼びかけて1954(昭和29)年に創刊した十代の俳句雑誌。1957(昭和32)年までに12号が出た。ここに寺山俳句の精髄がある。未発表句・手紙収録。寺山修司の魅力は死後28年たっても色あせず、とくに若者の人気が高い。著者:松井牧歌は、寺山が高校生のときに創刊した俳句誌「牧羊神」に参加。寺山の俳句への意気込み、恋心なども披露した未公開句もある手紙をもとに、10代の寺山の新しい横顔を描く。

第1章 高校時代の手紙(「青い森」時代;春の峠ふりむ…;「牧羊神」結成に関するメモ;「牧羊神」創刊号;「牧羊神」第二号)
第2章 俳句・短歌に刻む永遠の青春(君と逢いたい;川口市幸町;乳房喪失;少女の手紙と道場破り;「牧羊神」第三号;パン句会例会記;「牧羊神」第四号;「牧羊神」第五号)
第3章 十七音詩の荒野へ飛翔していく寺山修司(幼年時代;幼年期から少年期;出発は俳句だった;「高校時代」;八月の青森;「牧羊神」第六号;全国学生俳句祭;「牧羊神」第七号;「チェホフ祭」;点滅して明なり;自己形成の記録・十代の作品;五月の鷹)
第4章 寺山修司の俳句(寺山俳句の背景;母を詠んだ句;父を詠んだ句;無償の精神の光芒―寺山修司と俳句)

●松井牧歌

本名・壽男(としお)。昭和10年5月3日大阪府に生まれる。昭和26年「群蜂」入門、榎本冬一郎に師事。昭和29年「群蜂」同人。寺山修司らの「牧羊神」創刊に参加。昭和39年群蜂賞受賞、現代俳句協会会員。昭和37年川崎三郎らと同人誌「拳」創刊。昭和61年「響」創刊同人、編集同人。昭和63年6月号より1年間「俳句とエッセイ」に連載20句発表。平成5年から亡くなるまで「水路」俳句会を主宰。平成13年から句誌「一滴」同人に。平成19年3月16日急逝。


■俳句雑誌「牧羊神(ぼくようじん)」

昭和29年2月に創刊された。青森高校在学中、「山彦俳句会」を結成して俳句に熱中していた寺山修司が、友人の京武久美らと、全国の高校生の仲間に呼びかけて作った「十代の俳句研究誌」である。「明日の俳句を拓き〈読まれる俳句〉〈感激の対象となる俳句〉のために動かなければならないのは若いゼネレーションの僕たちです。」(「『牧羊神』結成に関するメモ」より)―十代の自分たちの手で、文学史に残る俳句革新運動をやろう―寺山の呼びかけに、全国から24人の同人が集まり、牧羊神俳句会は結成された。タイトルの「牧羊神」とは、ギリシア神話の羊飼いと羊を監視する、葦笛を吹く神「パン」のこと。寺山はこのタイトルの意味について、次のように説明する。「こゝに創刊したpanは現代俳句を革新的な文学とするため、そして僕たちの『生存のしるし』を歴史に記し、多くの人々に『幸』の本体を教えるための『笛』である。」「僕たちはこの『笛』を吹きつづけよう。」(第二号「PAN宣言」)


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18歳の寺山修司さん・・・かっこいい。


創刊号はガリ版刷り12ページ。巻頭に秋元不死男「子規忌」7句、香西照雄選の同人作品と選評、と当時中央俳壇で活躍中の俳人が登場、続いて同人自薦の作品、京武久美の「俳壇展望」を掲載。単なる高校生の作品集ではなく、中央の俳誌・俳人と対等の目線による誌面作りが目を引く。寺山の作品は香西照雄選の3句を含め、全部で20句掲載。

 便所より青空見えて啄木忌

 詩人死して舞台は閉じぬ冬の鼻

特にこの2句は同人の間での評判も良く、第2号の合評会でも取り上げられた。のちに、句集『わが金枝篇』『花粉航海』にも収録された、寺山の自信作である。当時高校3年生の寺山は、4月には早稲田大学進学のため上京し、「牧羊神」の本拠地を東京に置いて活動したが、しだいに同人との意識の違いを感じるようになる。そしてこの年の11月、「短歌研究」新人賞受賞という大きな転機が訪れた。寺山は10号(昭和30年10月)を最後に「牧羊神」を脱退し、俳句からも遠ざかっていく。没頭したのは若い日の一時であるが、「俳句」は寺山修司の文学の出発点であった。「牧羊神」は、その足跡を伝える貴重な資料である。


・・・「詩は予言である」ということが、寺山修司さんと牧羊神パンとのつながりなど、本当にそんな気がしてきた。さらに、寺山修司さんをこの機会に追いかけてみたい。