えへっ(58) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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萬国パクランカイ(15)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-えど1


■エドガー・ウィント『芸術と狂気』

『芸術と狂気』の第三章「目ききへの批判」が捧げられているジョヴァンニ・モレルリ(1816~91)について。モレルリはイタリアの解放と統一のために闘い、イタリア元老院議員になってから、変名を使い、ドイツ語で奇妙で革命的な書物を著しました。その本の中で、レフモレルリという名の青年が反教権主義者のイタリアの老人とドレスデンで出会い、美術品鑑定の基本原理を教わります。彼はそれによって、ドレスデン美術館の所蔵絵画のうち46点が偽物であることを証明するのですが、他の美術館の絵画に適用しても結果は似たようなものになりました。ジョルジォーネ、ティツィアーノなど多くの絵画が贋作と判定されたのです。モレルリの方法は次のようなものです。それまで、作者の判定の決めては全体の印象、構図、比例、色彩、表情、身振りなど美学的に重要な個々の特徴に拠っていました。ところが、これら芸術的に意味深い特徴はまさに贋作者によってもっとも真似されやすいところだったのです。モレルリはこれに反して、ただ一つの可能な判定方法は、およそ本質的とは思われない小さな特色、まったく無関係に見えるため模作者も修復者も贋作者も注意を払わないような二義的な特徴、例えば爪の形とか、耳たぶの形に準拠しなければならない、と断定しました。これらの部分は、作者自身も、贋作者も、最も気を緩める部分であるがゆえに自らの筆のままに任せてしまい、結果、誤りなく作者を指示するものになるというのです。「個性的な努力の最も少ない部分にこそ個性は見出される」のです。モレルリの方法は、彼自身が浸っていたロマン派の気分を強く表しています。中心よりも周辺を、完成よりも断片を、大作よりも素描を、という傾向は現代の芸術にも多かれ少なかれ影響しているとウィントは書いています。どんなことをしても真作をあぶりだすという風潮は、現在のレオナルド『最後の晩餐』の化学溶媒を使った「洗浄」にもみられるでしょう。ウィントはそのようなことを危惧していながらモレルリの業績には最大の賛辞を送っています。それは、「文法的に整えられた文章よりも、霊感に満ちた口ごもりに熱心に耳を傾ける」そのロマン主義への共鳴にほかなりません。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-えど2


■ジョヴァンニ・モレッリGiovanni Morelli

1371年10月30日フィレンツェに生れ、1444年7月21日同市で没した富裕な商人で、羊毛組合(アルテ・デッラ・ラーナ)に所属、主に染色業を営んだが、そのかたわら羊毛の取引、両替商などにも手を出していたと伝えられている。フィレンツェ市の公職に関しても、37七才の時「地区の旗手」(ゴンファロニェーレ・ディ・コンパニーア)をつとめて以来、「地区の旗手」を都合三度、「12委員会(ドディチ・ボノーミニ)委員」を2度「執政」(プリオーレ)を1度、といった具合に数々の要職を歴任した上、69才の時にはフィレンツェ最高の公職だった「正義の旗手」(ゴンファロニエーレ・ディ・ジュスティツィア)にも就任している。一方家庭的には生涯に2度結婚し、最初の妻からは5男3女、2度日の妻からは1男、他に庶子が1男あったとも記されており、結構多忙な生涯を送った人のようである。彼の生きた70余年において、フィレンツェで起った事件を拾い上げてみると、オット・サンティの戦い、チオンピの反乱、アルビッツィ家を中心とする寡頭体制をめぐるいざこざ、ジァン・ガレアッツオ戦争、アルビッツィ一派の追放とメディチ家の支配の確立等々、それに、長期間におよぶピサ戦争を加えると、ごく主だったものを見ただけでも、この時代が如何に波乱に富んだ、特に上層の市民たちにとって危険な時代であったかが分る。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-えど4


ジョルジョーネの《眠れるヴィーナス》。描かれたヴィーナスは、目は閉じられ、耳も見えていない。では、モレッリは何からジョルジョーネと判断したかというと、実は背景や構図。下から3/5に描かれた地平線/背景左の岩のモティーフ/木立とまばらな葉/三角屋根の側面にあたる光/ソフトフォーカスがかった明暗法、など。モレッリは、近代化しつつあった鑑識法(アルフォンス・ベルティオンが確立した耳による犯人同定)や、比較解剖学(1本の骨から全体の人体を推定する)を意識し、鑑定法を厳密化して科学の地位に高めたかった。それ故、細部から全体像を類推するモレッリ方式を強調した。しかし、実際の鑑定には、事後的にモレッリ方式を使っていた。
モレッリの主張
○細部 <ー> 全体
○観察 <ー> 印象
○客観 <ー> 主観
画家の同定で一番難しいのは、初期の作品。ラファエロの初期作品がペルジーノの影響を強くうけているように、判断は難しい。モレッリは、初期作品にもアトリビューションを試みたこと、また誰が誰の影響を受けているかなど、画家の文化地図の作成にも功績を残した。


・・・初期の作品の鑑定が難しいことについて、なるほどである。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-えど3


彼が学生時代に偽名で著わした二つの著作が『バルヴィ大王』と『悪魔の瘴気』である。著者名のない『バルヴィ大王』は1836年にミュンヘンで25部が私家本として刷られ、トラウゴット・ゴットヒルフ・シュネック(Traugott Gotthilf Schneck)の遺稿をニコラウス・シェファー(Nikolaus Schäffer)が編集したという触れ込みの『悪魔の瘴気』は、1839年にシュトラスブルクの出版社G.Silbermannから刊行されている。『バルヴィ大王』のなかでモレッリ自身はニコラウス・シェファーとして登場しており、この名が『悪魔の瘴気』の編者名として使われたわけである。『バルヴィ大王』の完全な版は1冊のみ、『悪魔の瘴気』も2冊が現存するだけらしい。
前者は、要するに飲み仲間だった学生同盟の面々を描いた戯画を古代の美術作品のようにして解説したイコノロジーのパロディ(「バルヴィ」とはその友人のひとりのあだ名である)、後者は大気中の「悪魔的瘴気」をめぐる自然哲学的、生理学的、薬理学的研究のパロディである。画家の友人たちをもち、美術史に強い関心があった医学生モレッリの両面がそれぞれ反映された戯作と言えるだろう。
大学の教授陣の講義や振る舞いを学生がパロディにすることは1830年代ドイツの流行だったらしい(現代の日本でも変わりないかもしれない——ハスミ文体のパロディを自動的に作成するスクリプトがあったことを思い出す)。ネタもとを知らないわかりにくさはあるにせよ、とりあえずは挿画だけでも楽しめる。


・・・パロディの天才は、学生たちかもしれない。それは、石頭の教授陣への痛烈な批判であり、社会の矛盾そして権力や体制への反逆魂である。



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■シェイクスピア贋作事件/著:パトリシア・ピアス/翻訳:高儀進

文豪シェイクスピアの文書を多数贋作した、弱冠19歳の若者の素顔に迫る!18世紀の英国を騒然とさせた男ウィリアム・ヘンリー・アイアランドWilliam Henry Ireland―その波瀾の生涯を辿り、贋作の驚くべき手法と、意外な動機を明かす、異色の評伝。

■シェイクスピア学史上最大の贋作

1794年夏、すでに観光名所と化していたストラドフォードの地を、サミュエル・アイアランドとウィリアム・ヘンリー・アイアランドという親子が訪れる。これがシェイクスピア学史上最大の贋作事件の幕開けであった。当時、父サミュエルは50歳、子ウィリアムは19歳(ただし彼自身は後に著したパンフレットで、この年にはまだ17歳だったと主張している)。

父子はここでシェイクスピアの屋敷に残されていた大量の書き物が、ある農家に運びこまれたという噂を聞く。父子はあわててその農家にかけつけたが、その家の主の返事は「手紙やなんか屑籠に何杯もあったが、二週間ほど前に全部燃やしてしまった」とのこと。現在の通説では、シェイクスピアの屋敷には、書き物など最初から存在せず、父子は気のいい田舎の農夫にかつがれたということなのだが、少なくとも父サミュエルはこのホラを真に受けてしまった。

ほんの2週間ちがいで貴重なシェイクスピア自筆が永久に失われてしまった・・・ロンドンに帰ったサミュエルは腑抜けのようになり、譫言めいた口調でシェイクスピア、シェイクスピアと繰り返すばかり。失意の父をなぐさめるためにウィリアムが打った手は、シェイクスピアの自筆文書をもたらすことだった。もちろん、そう簡単にシェイクスピアの自筆が見つかるわけはない。なければ自分で作り出すまでである。

法律事務所の徒弟だったウィリアムはすでに古い法律書類についての知識を得ていた。古本屋・骨董屋めぐりの趣味のおかげで古い紙や羊皮紙も手に入った。仕事の関係で知り合いになった製本屋の職人は古風に見えるインクの調合を教えてくれた。この職人に限らず、ウィリアムの友人たちは贋作の思いつきを責めるではなく、むしろ面白がって協力していた。彼らにしてみれば、この程度のイタズラは失敗してもともと、成功すれば、古い物をやたらとありがたがる上品な方々を笑い物にできるというわけである。

94年12月初め、ウィリアムは父親に、ある紳士と知り合いになったと告げた。その紳士の家には大量の古文書があり、その中でウィリアムが気に入ったものがあれば、何でも貰い受けることができると約束してきた。そして、その中には、シェイクスピアの署名入り文書があった・・・

シェイクスピアの不動産抵当書類と称するものが、狂喜するサムュエルの前で広げられたのは12月16日の夜のことだった。これがウィリアムによるシェイクスピア贋作の第一号となったのである。

サミュエルは、知り合いの古事研究家フレデリック・イーデンを招いて、文書の鑑定を依頼した。イーデンはそれが本物であることを保証し、署名の下にある蝋印はクインティンという槍試合の的の模様だから、シェイクスピア(「槍を振る」の意味)の姓を持つ者にふさわしいといってのけた。実はウィリアムはその模様が槍試合の的であることなどは知らず、ただ手近にあった古い書類の蝋印を剥がしてはりつけただけだったのである。

イーデンの鑑定以来、シェイクスピアの蝋印がクインティンだったというのは、父子の共通認識となり、その後、ウィリアムが次々ともたらすシェイクスピア文書の中でこの蝋印は多用されることになる。

さて、サムュエルの求めに応じて、ウィリアムは次々とシェイクスピアの自筆文書を届けてきた。シェイクスピアがカトリックだったことを示す信仰告白書は、サミュエル・パーとジョセフ・ウォートンという当時の代表的碩学によって鑑定されたが、彼らはシェイクスピアの文章の美しさを讃えるばかりだった。

名士たちが次々とアイアランド家を訪れ、新発見のシェイクスピア文書に感嘆した。彼らの中には、学者や評論家として名を成している者も多かったが、その学識が感動に水を指すことは希だった。わずかに上がる疑惑の声も名士たちが挙げる歓声の騒音に掻き消された。

■シェイクスピア外典(Shakespeare Apocrypha)

かつてはシェイクスピアの作品(正典)とみなされていたものの、現在では別人によるものと判定された、もしくは、真作である可能性はあるが断定する根拠に乏しい一群の作品のことである。これは、シェイクスピアの真作と認められるものについて、その作者の正体をめぐって展開される議論とは別の問題である。