萬国パクランカイ(9)
■模写と転写
模写(英: reproduce)は、美術において、他者の作品を忠実に再現し、あるいはその作風を写し取ることでその作者の意図を体感・理解する為の手段、方法。ただ単にその作品をそっくりに複製する(英: copy)手法は「転写」であり、「模写」ではないとされる。
日本画においては古くから修行や絵画の精神性や洋式、技法の伝達などを目的に模写が行われている。また、現在では絵画の保存を目的とした模写も行われており、原画が失われても模写が現存することで絵画の内容が伝わっている例もある。
模写は「上げ写し」や「敷き写し」などの技法で原資料から図像を写し取り、色見本を作成した上で彩色・裏彩色を施して制作される。
■ユトリロMaurice Utrillo
1883パリ生まれ1955ダスク没。フランスの画家。独学で、画壇からも孤立しながら、灰白色の微妙な色調で哀愁に満ちたパリ風景を描き続けた。ユトリロはパリのモンマルトル、ポトー街に生まれたフランス人です。画家のモデルを生業とし、やがて自らも画家となるシュザンヌ=ヴァラドンを母に1883年、モーリス=ユトリロは誕生します。父親は不詳です。やがて親の結婚と共にパリの北の郊外に住み始めます。しかしモンマルトルのアトリエでの制作に忙しい母親にはあまりかまってもらえず、祖母との寂しい生活の中で8歳頃から葡萄酒に溺れていき、21歳の時にはアルコール中毒の治療のために入院を余儀なくされました。退院後、医者のすすめであまり気乗りしないままに始めた絵の制作に、ユトリロは瞬く間に独自の才能を発揮していきます。絵の制作は結局のところ、ユトリロがアルコール依存症から脱却するための有効な手だてにはなりませんでした。1909年母親のヴァラドンはユトリロの友人でもあった若い画家アンドレ=ユツテルと恋に落ち、夫と別れてこの愛人との生活を始めます。ユトリロも一緒でしたが、所詮、彼は二人の恋人にとっては邪魔者でしかありませんでした。ますます酒に溺れ、薄汚れた格好をしてモンマルトルをさまよい歩くこの酔いどれ画家は、居酒屋やバーなどで寝泊まりをしました。こうした状況の下で描かれた彼の絵は全画業の中でも最良のものに属しています。それはおよそピトレスクとはいいがたい月並みな都市の風景でありながら、喧騒とは無縁な寂蓼感と詩情をたたえた絵画世界であり、建物の壁や石の塀などに用いられた微妙なニュアンスに富む濃密なマチェールの白が、画面を支配しています。「白の時代」と呼ばれるこの時期(1910年代前半)、ユトリロは現実から次第に遠ざかり、絵はがきをもとに制作するようになります。しかし彼は月並みなものから豊かな情感を引き出すすべを心得ていました。モンマルトルの人々はそこに自分たちの心象風景の投影を見、また彼の絵を扱う画商も現れるようになります。1919年、デュラン=リュエル画廊でのミルボー・コレクションの売り立てなどでユトリロの作品が高値で取引されて以来、彼の絵は値上がりしはじめ、加えて力ある画商たちによって次々と開かれた展覧会が、彼の絵の相場をさらにつり上げました。
今や国際的に名の通った画商が彼の作品を取り扱い、このモンマルトルの酔いどれの名はフランスを越えて外国にまで広がっていきました。しかしこうした富と名声とは裏腹に、ユトリロの生活は責任能力のないほとんど囚人に近い様相を帯びるものでした。この時期、彼は決定的に宗教に傾斜していきました。1920年代以降のいわゆる「色彩の時代」においては、以前の重厚で厳粛な調子は一掃され、明るく澄んだ色調の多様な色彩が軽妙な筆致で薄く塗られ、細かい線的要素が強調されています。
■ジャン=ウジェーヌ・アジェJean-Eugene ATGET
フランスの写真家。1857年フランス南西部のリブルヌに生まれる。両親を亡くし、5~6歳頃に叔父に引きとられる。1879年に音楽家や俳優を養成する学校のコンセルヴァトワールに通うが、兵役のために演劇学校を中退し、地方回りの役者になる。1886年、生涯の伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォスに出会い、旅回りを続ける。1897~1902年の間にヴァランティーヌはラ・ロッシュで公演をするが、アジェは1898年に劇団を解雇される。一人パリに戻って、画家を目指すが、生活のために写真を撮り始める。初期の頃は、路上で物売りする人々の写真を撮っていたが、20世紀前後のパリの建築物や室内家具などを撮り始める。30年間に約8000枚の写真を残し、作品の多くは、死後発掘公表された。フランス第三共和政下のパリの様子をとどめた貴重な記録であり、都市風景を撮影する手本として評価された。