えへっ(41) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大正ロマン(10)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わらび1


日本語で使われているような意味での「ロマン」という語は英語にはない。英語のロマンはフランス語からの借用で、単に「長編小説」というような意味である。したがって、「海には男のロマンがある」などというロマンは和製英語である。明治以来ロマンティシズムという語を浪漫主義と訳す習慣があって、日本人はそれを浪漫の主義という意味と考え、浪漫が独立した意味があると考え、ロマンというのが「壮大な夢」とか「うつくしい夢」などの意味として独立してしまったのである。


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英語のロマンティシズム(romanticism)は、ロマンティック(romantic)という形容詞にイズムがついて出来たものである。かつてローマがその版図を広げ、支配下におかれた国々にローマの言葉ラテン語が広まった。しかし、一般の民衆の間には正しいラテン語は行き渡らなかったので、土着の言葉の影響を受けるなどして崩れた俗ラテン語が各地に成長した。それがロマンス語である。当時教会ではラテン語で学問や教育にラテン語が使われ、古典的な文学研究などもなされていた。その一方、民衆の間にロマンス語で書かれたり、話されたりする物語が生まれ、それが「ロマンス」と呼ばれた。学者や僧侶が読む古典文学などに対して、民衆の「ロマンス」は低俗とみられたが、情熱的な騎士と貴婦人の熱烈な恋愛物語や怪奇物語など、空想的なものが多かったので、そういうものをロマンティックと呼ぶようになった。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わらび3


■高畠華宵(1888年4月6日~1966年7月31日)

愛媛県宇和島市生まれ。本名・幸吉。13歳の年に上阪して、日本画家の門下生となるが、その後京都市立美術学校日本画科に学び、18歳の年には、関西美術学校で洋画を学んだ。上京して、更に日本画を学びながら彼が図案や広告などの仕事に携わるようになったのは、明治末であった。とくに「中将湯」の広告絵は、モダンでロマンチックな婦人画で注目を浴び、それから約4年後の大正4年、華宵は27歳の年で『少年倶楽部』に執筆を開始する。そしてこれを機に、彼はその作風で絶大な人気を得て、その後約20年間にわたり、少年少女向け雑誌・大衆婦人向け雑誌など出版美術界に君臨し、一世を風靡したのであった。高畠華宵は、線描によるリアリズムの挿絵画家であった。多くの雑誌が創刊され、数多くの挿絵画家を輩出した当時の出版界の中でも、流麗な線で描かれた美少年美少女は、透明感のある新鮮なタッチと妖艶な人物描写の混合する魅力的な挿絵として、人々をひきつけた。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わらび4


華宵のペン画による挿絵は終わりを告げようとしている木版ではなく新しい印刷である銅版や凸版にあった技法であり、また彼が描く、欧米風俗やニューファッションは新しい文化の情報源でもあった。昭和10年以降、本格的に日本画に取り組み、その後絵本などにも描いた。晩年には、明石の愛老園で余生を過ごしたが、弥生美術館を設立する弁護士・鹿野琢見との出会いを経て上京。個展を開催するが、昭和41年脳血栓にて没する。享年78歳。


■株式会社ツムラ(Tsumura & Co.)

東京都港区赤坂に本社を置く漢方薬品メーカーである。1893年創業。コーポレート・スローガンは「自然と健康を科学する」で、かつての津村順天堂時代には「漢方を科学する」を名乗っていた。現在は、会社ロゴのスペースに「漢方のツムラ」と表記している。大和国(現在の奈良県)に生まれた初代津村重舎が上京し、日本橋に漢方薬局を開いたのが始まり。津村が故郷から受け継いだ秘薬を元に改良され、創業と同時に、婦人保健薬「中将湯」を発売する。その他にも1907年に胃腸薬「ヘルプ」を発売する。1900年、中将湯を精製する過程で出るくずを従業員が持ち帰り風呂に入れたところ、夏のあせもが消え、冬には体がよく温まるという経験をヒントに、「くすり湯中将湯」を発売する。さらにこれを改良・研究の結果を得て「バスクリン」となる。


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バスロマンは・・・アース製薬です。


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■蕗谷虹児

明治31年、父20歳、母15歳という若い両親の長男として新発田町(現新潟県新発田市)に生まれました。家計が苦しかったため、病弱だった母は、髪結いの仕事をしたりしていました。蕗谷虹児は、その母の傍らで、髪結いで美しくなっていく女性を眺めながら育ったと言います。その母は、虹児が12歳の時、27歳という若さでこの世を去ります。14歳の時、上京して尾竹竹坡の画塾で学ぶことになります。上京して約5年間、尾竹竹坡のもとで日本画を学びます。その後、樺太に渡り、約2年半、放浪画家生活を送ります。樺太から故郷に戻り、再び上京します。そして、大正9年、蕗谷虹児は、あの竹久夢二を訪ねます。竹久夢二との出会いが、蕗谷虹児にとってのターニングポイントでした。


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その後、挿画家としてデビューを果たします。全国的にも名前が知られるようになりました。大正14年、蕗谷虹児はフランスのパリに留学します。美術展に連続入選を果たし、個展も開催します。戦争が終わると、復興した各誌に再び描き始めます。自画伝「花嫁人形」、「蕗谷虹児抒情画集」を出版、「画業50年記念抒情画展」を開くなど、晩年も精力的に活躍しました。昭和54年、中伊豆温泉病院で心不全にて死去。享年80歳。


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抒情画という言葉を命名したのは蕗谷虹児と言われています。詩を書き、何冊も詩画集を出版している蕗谷虹児は、詩の挿絵と小説の挿絵の違いについて考え、詩の挿絵は説明的ではなく余韻を伝えるものがいいと思い、みずから抒情画と名付けたといわれています。