持続可能な復興支援として、出版社・書店・取次会社で復興支援共通ブックジャケットをシェアできないだろうか?
■ブックジャケットを作れないか/筑摩書房:小島秀人
子どもたちに今年の桜をちゃんと見せておきたいと思い、先週末花見へ出かけた。自粛というよりも自制しているような宴会の様子は、微妙で不思議な空気だった。できることをする、元気に動ける人は動く、だけど羽目は外さない。そんな生煮え状態の酔っ払いたちを眺めることも、子どもにはいい経験になっただろう。
イベントやスポーツ大会、そして様々な会合など、四月に入っても中止あるいは延期が続いている。「こんな時に」という声も、「安全が担保されない限りは」という理屈も、被災地の現状とこれだけ続く余震のことを考えたら理解できる。原発事故とそれに起因する電力不足が、自粛に拍車をかけている。いろんな物の値段が上がっている。このまま貧乏をしたっていい。敗戦のどん底からこの国を再建したのは、われわれの親やその親世代だったはずだ、というのもわかる。
一方で、こうも思う。2004年の中越地震で実家の母が被災した。家が壊れ、ライフラインも途絶えて、救援物資だけを頼りに避難所で生活していた母の姿を、忘れることができない。東京に戻ってからも、しばらくは仕事が手につかなかった。被災していない自分たちが支えなくてどうする、と強く思うまで時間がかかった。宴会やイベントを再開することが支援につながるのか自分にはわからないけれど、震災前から不況と戦っていた日本経済がこのまま萎んでしまったら、本当にこの国は貧してしまうという危惧も理解できる。経済活動を止めてしまっては、支援の拠りどころを無くしてしまう。だから、企業は社会的責任において、ぼくらは国民の一人として、そして業界は本の力を信じて、できることを真摯に探すときだ。
そこで、ひとつ提案したい。書店共通のブックジャケット(ブックカバーは英語では表紙のことを指すから)を作れないか。趣旨に賛同してもらえそうな何方かにデザインしてもらい、版元と書店が製作コストを負担する。そのコストを、まま復興支援の基金にする。取次会社には各書店への配送をお願いする。この仕組みをシンプルに読者へ開示する。本を読めば読むほど、店頭でジャケットを付けてもらえばもらうほど、その行為が支援につながる。一枚につき1円にすらならないかもしれないが、年間出回り部数や新刊冊数から推計すれば、まとまった金額になる気がする。多くの参加社でシェアできたら、重荷にならない。もともと書店さんは自社で作っているわけだし。これを1年とか2年、できたら5年10年単位で続けていけたらと思うのだが。
筑摩書房が毎月発行する、書店向け新刊案内「新刊どすこい」5月号より、連載「営業局通信」(取締役営業局長・小島秀人)より転載しました。
●筑摩書房のマークは青空をはばたく鷹をデザインしたものです。作者は、青山二郎。創業を記念して、昭和15年に制作されました。
●青山二郎(1901年(明治34年)6月1日 - 1979年(昭和54年)3月27日)は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名であった。若き日に柳宗悦や浜田庄司たちの民藝運動に参加するも、やがて柳たちが提唱する民藝理論に矛盾を感じ離れていった。柳の甥の石丸重治と雑誌「山繭」に関わり、そこで小林秀雄と運命的な出会いをする。骨董を愛玩するなかで鍛えた眼で本質をずばりと見抜き、ときに手厳しい批評を行った。酒席で親友の小林を幾度も泣かせたといわれる。自宅には小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平といった文人たちが集い、「青山学院」と呼ばれた。白洲正子、宇野千代なども弟子にあたる。「俺は日本の文化を生きているんだ」というのが青山二郎の口癖であった。「ぼくたちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と小林秀雄に言わしめた。こんな男はそうそういない。にひとつ。中原中也が「二兎を追うものは一兎も得ず」ということを言ったとき、青山二郎は「一兎を追うのは誰でもするが、二兎を追うことこそが俺の本懐なのだ」と返答したという。
●白洲正子のエッセイより抜粋
・・・ねずみ志野の香炉でした。それまで中国の陶器ばかり見ていたのが、何故日本の焼き物に心ひかれたのか解りません。そういう事が既に変でした。値段も高く、ふだんならあっさりあきらめるところを、人に見られるのさえいやで、誰にも相談せず、その場から抱いて帰りました。家へ帰っても五分としまっておけない。出してもおけない。そわそわして、色んな事が気にかかります。そのうちお金の方は月賦で払うことが出来たものの「いいもの買ったね」と小林秀雄さんに言われるまで、品物の方にはまるきり自信が持てないのでした。なるほど買ってみないことには解らない。この世界では買うという事が唯一の行為であることを、その時はじめて知ったのでした。いい気持ちになっていると、小林さんの焼きものの先生だった青山二郎さんにこんな事を言われました。「あれは誰が持っていても一流のものだ。何もわざわざ買うことはない。自分が持っているから値打ちがある、というものばかり目ざしたらどうだ」と。
・・・晩年は、渋谷の高級マンション「ヴィラ・ビアンカ」で自分のコレクションに囲まれて暮らしたというから、カッコイイ。