それから4年・・・
偶然、新聞で「震災モニュメントマップ」の記事を発見した。各学校に学習資料として無料で配布してくれるという・・・
早速、事務局に連絡をとり、「震災モニュメント・ウォーク」に参加させていただいた。俳優で代表をしておられる堀内正美さんにお会いし、多くの被災者の方々と共にモニュメントをたどって歩いた。
息子さんを亡くされた方の言葉、「忘れられるのが一番つらいことです・・・」が今でも耳を離れない。
そして、多くの仲間たちに「震災モニュメントウォーク」への参加を呼びかけた。
焼け残った「たかとり教会」のキリスト像、その横に掲げられた看板には・・・
「最後の一人がもどるまで震災は終わらない」と書かれていた言葉が、今も眼に焼きついている。
■毎日新聞1999年9月14日/大阪狭山市の中学教師ら震災慰霊碑巡り研修、被災者らとも交流
http://www1.plala.or.jp/monument/aruku.html
大阪狭山市の中学教師らが夏休みを利用して、阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などを巡り、震災の教訓を語り継ぐ被災者らと交流した。慰霊碑の所在地を示した「震災モニュメントマップ」をもとに、フィールドワークを通じて、教師自身が得た感動を学校現場に生かそうという試みだ。主催した同市教委は「この経験を、命の貴さを考える人権教育の糧にしたい」と話している。震災後、犠牲になった家族や地域住民の慰霊のため、兵庫県内には多くの慰霊碑や記念碑などのモニュメントが建てられた。マップは阪神・淡路復興委員会委員長だった下河辺淳さん、作家の陳舜臣さんや行政関係者ら有志が作成委員会を作り、今年1月に完成させた。毎日新聞の記事でマップを知った同市教委学校教育課主幹(46)は、事務局のボランティア団体「がんばろう!神戸」(神戸市北区、堀内正美代表)に連絡し、約100部を取り寄せ、大阪狭山市内の小、中学校に配布した。同市内の幼稚園や小、中学校にはこれまでに、阪神大震災で被災した32人の子どもたちが親せきなどを頼って転校して来ている。主幹は「親と離れて精神的に不安定になっている子どもたちの心をどうケアしたらいいか難しかった。心の痛みを分かりながら、教師側の力不足から心を閉じたまま卒業した子どももいた。被災した人の本音を知り、教育に生かしたい」と、交流会を計画した。7月27日の交流研修には同市の小、中学校と幼稚園の教師11人が参加。「がんばろう!神戸」から秦敬さんが道案内を買って出た。まず初めに、神戸市長田区のJR鷹取駅近くに完成した防災公園「ポケットパーク」を訪問し、震災とその後の火災の中、住民の救助活動に奔走した被災者の体験を聞いた。火災で黒こげになるなどした2体の地蔵と、ボランティア団体が寄贈した地蔵が並ぶ「地蔵堂」も被災の惨状を雄弁に語りかける。教師らはじっと話に耳を傾けた。続いて、同区内の市立二葉小学校を訪れた。震災当時、同市灘区の灘小学校に勤務していた鈴木かづ子校長が学校に泊まり込んだ体験を語った。児童の安否確認をしながら、避難者への対応、家族や友人の安否を尋ねてくる洪水のような電話・・・。ようやく学校再開にこぎつけた初日、校門で児童を迎えていると、ある児童が「家が焼けて、教科書全部なくなったけど来たよ」と話しかけた。「あの日の子供たちの姿を見て、もう一回、教員生活を頑張ろうと思いました」。一瞬、鈴木校長の声が詰まった。校庭には、震災で壊れた焼却炉のレンガを利用したモニュメントが建つ。「やさしさわすれないで」のメッセージは同校の震災学習のテーマになっているという。1日限りの交流だったが、参加した教師には実り多いものだった。「極限状況で人々が見せた優しさやいたわりを教育現場で取り組む題材にできないだろうか」と語るのは、大阪狭山市立南中学校の校長。同市立第三中学校の教諭は「いくら防災訓練をしても、実際となると予定通りの行動が出来るだろうか。とっさに判断できる、自分で考えて行動できる生徒に育てなければと実感した」と力を込めた。主幹は「この研修をすぐに授業に生かすのは難しいかもしれないが、この体験は教師にとって大きいはず。教師の心が動くことで、子供たちのハートに訴える教育に変えてほしい」と話している。
当初55ヶ所を記したモニュメントマップであったが、その後に発掘・発見されたモニュメントを加えて、120ヶ所を記した2000年版モニュメントマップが作成された。さらに「震災モニュメントめぐり」「希望の灯りともして」などの書籍も発刊された。