明日から4月・・・
急ピッチで進められているとは思うけれど・・・
急げ急げ、仮設住宅は復興への第一歩・・・
■1時間で建つ“仮設”山口の産学がハウス提案
東日本大震災の被災地で仮設住宅の建設が急務となる中、大人4人で1時間あれば簡単に組み立てられる「復興支援ハウス」が29日までに、宮城県石巻市の避難所の一角に到着。開発に携わった山口県議の岡村精二さん(57)は「避難生活のストレスから被災者を解放するため、早さと量を優先すべきだ」と、ハウスの活用を提案している。開発のきっかけは、仮設住宅の建設に時間がかかり、被災者がストレスの多い避難所生活を強いられた阪神大震災。簡単に建つハウスの必要性を痛感した岡村さんは、県議をしながら大学院で防災工学を専攻した山口大や、同県宇部市の建設会社と試行錯誤を重ね、9年がかりで完成した。新潟県中越地震ではボランティアが試作品に約1カ月滞在した。組み立てに重機などは不要。折り畳んだキットを起こすと、床面積約7・5平方メートル、高さ約2・5メートルの4人が寝泊まりできるハウスができあがる。ヨットなどを参考にした内装は、二段ベッド2台、トイレ、シャワー、台所、冷蔵庫を備え、太陽電池パネルで電気も使える。2メートルの積雪に耐える設計。床下にジャッキがあり、傾斜地にも建つ。重量約750キロで、10トントラックに9戸積める。3分の1に畳んで保管、再利用できる。宇部市から避難所がある石巻市の石巻専修大にトラックで運んだハウス2戸は、ボランティアが活動拠点に使っている。家が全壊した石巻市の高橋秀子さん(68)は「入った瞬間ほわっとする。気密性が高く暖かい」と表情を緩め、同市の岩野倶子さん(70)も「いつまで避難所にいられるか分からない。小さくても十分」と話していた。ハウスは1戸200万円前後を見込むが、市販した実績はない。岡村さんは「量産を引き受けるメーカーが見つかれば、工期が長い従来の仮設住宅より早く、たくさんのハウスを被災地に供給できる。今後、ハウスの備蓄も考えてほしい」と話している。
■仙台市、半数の学校で地震被害/19校は校舎使用不能
仙台市立の小中学校など計199校のうち19校が、東日本大震災の被害で校舎全体を使用できない状態になっていることが29日、分かった。一部が使用不能になった学校を含めると96校で、全体の約半数を占める。仙台市が教育委員会で報告した。市は校舎などの復旧費として、10億円を奥山恵美子市長の専決処分として予算補正し、修繕を急いでいる。大半の校舎は4月中に利用できるようになる見通し。市によると、校舎全体が使用不能なのは小学校12、中学校7。一部が使用できなくなったのは高校なども含め77校に上る。体育館は25校で全体が使用不能、52校で一部使用不能になった。また、学校給食施設が被害を受けて安定供給が見込まれず、4月中の給食の提供が困難になっていることも報告。牛乳やパン中心の「簡易給食」の可能性を探っていることを明らかにした。
■児童の生存確認は108人中24人/石巻市立大川小学校
「帰りの会」が終わり、子供たちが校舎から出てきた瞬間だった。宮城県石巻市釜谷の市立大川小学校を大津波が襲った。生存が確認された児童は108人中わずか24人。多くの子供が命を落としたが、先生に救われた命もあった。児童たちは5時間目が終了し、校舎から校庭に出たときに大きな揺れを感じた。教職員とともに校舎内に戻ったり、近くの公民館に逃げ込んだが、すぐに大津波が学校を襲った。この日午後から連休を取り、同県大崎市鳴子町の自宅にいた柏葉照幸校長は学校に戻ろうとしたが、寸断した道路が行く手を阻んだ。臨時船で北上川を乗り継ぎ現場にたどり着いた。「複数の子供の遺体が、がれきとともに山の斜面に折り重なっていた」。小学6年の息子を持つ父親の聞いた言葉で、壊滅的な被害を確信した。「発生直後に校舎にいた人は助かった」との情報に望みを託したが、状況が明らかになるにつれ、打ち砕かれていった。「どうして自分だけが助かってしまったのか。なぜ子供や職員を助けられなかったのか」。児童や教職員の安否を知るため、石巻市の避難所を回り続けた。ガソリンが底をつきそうになった2日後、被災した50代の男性教諭が助かったことが分かった。「先生が一人でも生きていてくれたんだ」。教諭は学校近くの公民館に逃げたが、津波を察知し、3年生の男児の手を引いて無我夢中で近くの山をかけ上がっていた。生存が確認された児童は108人中24人。この男児のほかに、迎えの車や自転車で帰宅した児童だけ。柏葉校長は「自分の命を守るだけでも大変危なのに子供の命も救ってくれた。他の先生もきっと同じように助けようとしてくれたと思う」と目を潤ませた。助かった男児とは14日に避難所で再会した。男児は柏葉校長を見つけ、「せんせー」と胸に飛び込んできた。13人いた教職員で連絡が取れたのは男性教諭のみ。24人の中には18日に行われる予定だった卒業式を心待ちにしていた児童もいる。柏葉校長は「立派な卒業式はできないけど、『卒業だよ』という意味だけでも伝えられる式はしてあげたい」と目頭を押さえた。
●29日、市内の別の小学校で今年度最後の登校集会を開いた。全校児童108人のうち、津波で56人が死亡、18人が行方不明となった。生存が確認された34人中、出席したのは28人。本来ならそばにいるはずの友達がいない。児童らは久しぶりの再会を喜ぶ一方、卒業式や修了式も行えず、心に重い不安を抱えたまま、この日を迎えた。「友達の数が少なくなってしまったね」。柏葉照幸校長(57)によると、校長のこの言葉を児童らは一様に寂しげに聞いていたという。「冥福を祈って黙祷(もくとう)をささげましょう」との呼び掛けにそろって黙祷した後、柏葉校長は、不安そうな表情を浮かべる児童らに語り掛けた。「たくさんの友達が亡くなったり、行方不明になったりしていますが、いまこの皆で力を合わせ、また笑顔がいっぱいの学校をつくっていきましょう」児童らは「はい」と返事をしたが、震災前の元気さはなかったという。集会は約20分間。終了後には、久しぶりの友達との再会に「何してた?」と声をかけ、気丈にはしゃぐ児童の姿もあった。集会は大川小から内陸側に10キロ離れ、被害を免れた同市立飯野川第1小学校の教室を借りて開かれた。児童らは親に手をひかれたり、車に乗せられたりしてぽつりぽつりと登校。職員の「おはよう」との声にも応えず、硬い表情でまっすぐ校舎内に入る親子もいたが、女児の一人は玄関で友達の顔を見つけると、友達の名前を叫んで「よかった!」と抱きついた。