玉造稲荷神社(2)
もっとも衝撃を受けたのが、この鳥居である。
●豊臣家奉納鳥居
慶長8年、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大震災により下半分が壊れ、現在は上半分が境内に置かれている。
こんなところで大震災の記念碑に出会えるとは・・・長崎の山王神社「一本柱鳥居(片足鳥居)」を見て以来の感動であった。
さらに、その横に・・・
●千利休居士顕彰碑
豊臣時代、玉造禰宜(ねぎ)町の地で千利休が屋敷を構えていたと言われ、恒例の秋のだんご茶会も、秀吉や淀君、秀頼らが野点の利休の茶会を楽しんだという故事にちなんだものである。この利休ゆかりの地に顕彰碑を・・・という大阪青年会議所の音頭で、昭和52年5月に完成。また、この石碑には利休居士15世にあたる千宗室宗匠の筆による利休の茶の心「和敬静寂」が彫られている。
●利休井
豊臣時代の千利休は玉造・禰宜町(当神社南側)に屋敷を構えた。この一帯は清水谷などの地名が残るように玉造清水と呼ばれる良質の水が得られ、利休が茶の湯に愛用したと『摂津名所図会大成』に記されている。また、当神社でも利休が生駒山系を眺め茶会を催したとの伝承が残り、利休ゆかりの地・玉造として昭和52年に「千利休居士顕彰碑」も建立された。平成18年には、同じ水脈であるこの利休ゆかりの井戸を大阪城甲冑隊(代表 河井計実)や大阪府立東住吉総合高等学校の福井一夫教諭や学生の協力のもと当時を偲ぶ井戸が再掘され、現代に甦った。
千利休にまで出会えるとは・・・ちょっとした寄り道・回り道・道草の大切さを実感した日であった。