平野三昧(6)
■清水寺・末吉船「絵馬」重要文化財/江戸時代初期
杭全神社が所蔵する末吉船(朱印船)の図の衝立は 堺市立博物館に寄託されている。さらに、清水寺には・・・平野の豪商・末吉長方が寛永9年(1632)に清水寺本堂に奉納した扁額式の大絵馬がある。幕府から朱印状を得てベトナム・東京(トンキン)貿易に成功して、無事帰国できた事を感謝して奉納した。外国人船員を交えて甲板上で祝宴を張っている光景を描いている。なお寛永10年・11年奉納の絵馬もあり、ともに重要文化財。当時の渡海船や服装・風俗を知る上で、貴重な史料である。
■坂上田村麻呂
平安時代の武官である。名は田村麿とも書く。中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があってはっきりしない。
田村麻呂には坂上大野、坂上広野、坂上浄野、坂上正野、そして桓武天皇の后だった坂上春子らの多数の子がいたと伝わっているが、坂上氏宗家の家督を継いだのは摂津国住吉郡平野庄(大阪市平野区)の領主となった坂上大野だった。しかし大野は早世し、弟の坂上広野が平野庄と坂上氏の家督を継ぐ。その後広野も早死にしたため、その弟の坂上浄野が跡を継いだ。浄野の次の坂上当道は、田村麻呂以来の東北経営と父あるいは伯父の広野(当道は浄野の子とも広野の子ともされている)にはじまる平野庄の経営に携り、子の坂上好蔭は武人として東北で活躍するが、その子の坂上是則、孫の坂上望城は歌人として名をなし、その子孫は代々、京都の検非違使庁に出仕し明法博士や検非違使大尉を継承した。
「清水寺」と「坂上田村麻呂」と「平野」そして「末吉家」が深い関係にあることがわかる。
■杭全神社
貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。以降、建久元年(1190年)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年(1321年)には熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。明治になって現在の社名に改まった。日本で唯一連歌所が残っており、連歌会は明治以降廃れていたが、1987年に復活させ、現在、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。1999年からはインターネット連歌が始まった。初代の連歌所は室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼かれた。現存するのは1708年(宝永5年)に再建されたもので、大阪市指定文化財に指定されている。夏祭り(平野だんじり祭)が毎年7月11-14日に行なわれ、付近の国道25号の走行が規制される。
●杭全という地名を見ることができる最古の歴史は、平安時代初期、西暦800年頃、坂上広野が蝦夷との戦いで武功を立て、朝廷から杭全庄を賜り、領有にしたという歴史になる。源有義を祖とする石川源氏系の杭全氏が杭全庄の開拓を行ったが、15世紀頃から坂上行松を祖とする平野氏と庶流七家が宗家の坂上氏を支え、荘園の自治に携わった。同時期から平野庄と呼ばれ始める。※庶流七家は後に平野七名家と呼ばれる。(平野七名家=末吉氏、土橋家、辻花氏、成安氏、西村氏、三上氏、井上氏)
●戦国時代には、織田信長の脅威に対し、荘園、町周辺に環濠を建設、防御を備えたが、織田信長に屈服した。その後、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、有力商人は大坂・天王寺村へ移住させられ、環濠は埋められた。これが大坂の役で徳川方に付く遠因となったとも言われる。大坂の役では、平野庄に徳川家康の陣が設けられ、末吉氏は平野庄の代官に任命される。大坂の役後は倒壊した町の再整備を行った。この頃から平野郷と呼ばれるようになる。※杭全庄、平野庄、平野郷は同じ地域の名称であることから、時代によって変遷があった、又併称されたとも言われる。平野郷は、七町で構成される「平野本郷」と今在家、新在家、今林、中野の四村で構成される「平野散郷」で構成されるようになる。現在の杭全は、平野散郷の新在家村が源流である。平野散郷ができた理由は、新田開発による枝郷の形成結果であると言われている。
【由来1】息長川(現在の今川)の氾濫を防ぐため、杭を打ち、全て打ち終わったことに由来し、杭全になったと言われる。
【由来2】その昔、河内湖という湖があったらしく、いくつもの川が流れ出ていた。その川で九つの股があるような地形だったから。
【由来3】このあたりには渡来してきた「百済」の人たちが住んでいた地域で、「くだら」が訛って発音され「くまた」という地名が定着した。
【由来4】古事記によると、上古この地に住まわれた日本武尊の御孫・杙俣長日子王(くいまたながひこ)の名にちなんで、「くまたの荘」と称したと伝えられる。
【由来5】一般的にクマは曲、即ち川の湾曲する地形の意味ですので、川の湾曲する所の多い土地とも考えられる。
●杭全の杭はクイと読み、全はマッタシ・マタと読むのでクイマタとなり、ここからイが脱落してクマタとなったと考えられている。
●久万田、久末多と書くこともあるという。
■平野環濠跡
いつ頃掘られたものかは不明であるが、戦国時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持って作られたと考えられる。町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。濠は平野川ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられ、現在では杭全公園の北側と平野公園にある赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
杭全神社をあとにして、町中へと・・・