絵道KAIDOをゆく(19)
太子町の孝徳天皇陵を紹介したので、再び羽曳野にもどって・・・
■安閑天皇陵(古市高屋丘陵・古市城山古墳・高屋城山古墳)
継体天皇の第一皇子、第27代、安閑天皇の陵。高屋丘陵の北端に位置し、前方部を西に向けている。高屋城は南北朝時代に、北朝方に付いた畠山基国が古市城(誉田城)として築き、遊佐氏が居城としていたのが始まりといわれています。その後、応仁の乱の発端となった畠山義就が、乱が終わった頃の文明十一年(1479)に、安閑天皇稜を本丸に取り入れた大城郭を高屋城として築きました。戦国時代になると畠山高政、安見直政、三好長慶の三勢力が高屋城をめぐり争って、天正三年(1575)織田信長が大阪に攻め込み廃城となるまで続きました。上野の国立博物館には、この陵から出土したと伝えられるガラス製のお椀がある。
●城山姥不動明王縁起
抑も呼称城山とは地元現存高野街道不動坂上東西五町南北八町い及ぶ高台一帯で古来源家を始祖とする畠山累代の高屋城址にして南北朝争乱時代の攻防巨據点たりし居城も既に壊滅廃墟正平二年このかた六百余年経過の今日夏草の老い茂るつわ者共の夢の跡を偲ぶ古城の史跡地を呼称するものである。さて移築の現姥不動明王(旧称伯母不動)は嘗ての居城唯一の守護神で歴代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たるを縁起とす。依って爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を去来する老若男女の来拝萬徳の道祖神たらしめんとするにあり。因に本碑文は地元旧家森田家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。昭和五十四年七月吉日 右 端山文仁謹書
●高屋城
信長が上洛して畿内から三好三人衆を駆逐した後、摂津は和田惟政・池田勝正・伊丹親興に、河内は若江城三好義継と高屋城畠山高政に任せた。河内守護の畠山高政は信長入洛以前より三好勢と死闘を演じた武勇に優れた人物だった。父政国が守護代遊佐長教によって実権を奪われ傀儡と化したのを憂え、信長の威光を背景に畠山家再興を目指し守護代遊佐氏を討伐しようとした。しかしその動きが露見して1568年守護代遊佐信教(長教の嫡男)、安見直政によって紀伊に追放されてしまった。その後信教は高政の弟昭高を擁立して傀儡とした。1571年昭高は信長の養女を妻に迎えた。この年から三好義継・松永久秀と関係が悪化、高屋城を囲まれる。これに信長が援軍を出している。1573年6月25日信教が昭高を殺害して高屋城に三好康長を呼んだ。その一週間後足利義昭が槙島城で挙兵した。この動きは義昭・三好・本願寺が連携したことの表れではないだろうか。義継・義昭は敗れ畿内は一応落ち着いた隙をついて、本願寺と康長は再度信長に挑んだ。高屋城を囲んだ織田軍と城方との戦闘で信教が戦死したのが康長の誤算だった。高屋城は安閑天皇陵を本丸に南に向かって下る高台にある。高屋神社がある三の丸は古屋敷と呼ばれていて高屋神社は「古屋神社」といわれていた。しかし名前が悪いということで高屋城にちなんで高屋神社になった。
●不動坂口
高屋城は城域の真中に東高野街道が走っていた。街道の城への北の出入り口は本丸のすぐ横にあり、織田軍はここを突破することになった。当然城方もここが弱点であるのは百も承知だったので街道の両側に櫓を設けて警戒していた。織田軍は街道沿いの古市の町を突破して不動坂門に殺到した。伊藤三右衛門の弟二介は何度も城門を突破しようと攻めかかり、その度に傷を負って死んでしまった。結局織田軍は本丸に迫ることはできなかった。
●安閑天皇皇后・春日山田皇女「古市高屋陵」
安閑天皇の皇后、春日山田皇女の陵。安閑天皇陵から南へ、住宅街の中で生垣に囲まれています。羽曳野市の掲示板には北面する前方後円墳と書かれているが円墳と思われます。
安閑天皇陵と皇后陵の大きさの違い・・・
住宅街に埋もれているので、なかなか見つかりませんよ。






