ぱくっ(85) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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絵道KAIDOをゆく(16)


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高島市朽木「興聖寺」で忘れていたことがある。

・・・それから25年でございます、と老婦人はいわれる。足利義晴が天文19年、40歳で亡くなってから420年になる。「このお庭はそのころからのもので、木の根で石がすこし傾いたぐらいで、なにもかももとのままやそうでございます。---京都の重森三玲先生も」と、高名な造庭家の名が出た。「このお庭ばかりは飽きがこないとおっしゃっいまして、毎年一度はお見えになっておりましたが、このごろはお齢を召されて、もうそんなにはお見えになりません」「石組みの石は、どこの石ですか」と、私は石のことなど、よく知らないのだが、そうきいてみた。(「街道をゆく」より)

この庭は、あの重森三玲さんのお気に入りだったのである。


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■亀井若菜著「表象としての美術、言説としての美術史―室町将軍足利義晴と土佐光茂の絵画」

本書は室町時代の絵画作品とその言説を、それらを生み出した社会的コンテクストから分析した書である。まず、絵の表現を、絵を作らせ享受した者の願望の表象として読み解いた。取り上げた作品は、「桑実寺縁起絵巻」と「日吉山王・祇園祭礼図屏風」である。ともに土佐光茂筆と考えられる。2作品は画面の形態も主題も異なり、従来の美術史の分類では、前者は「社寺縁起絵巻」、後者は「祭礼図屏風」というように、まったく別のジャンルに入っていた。しかし、画面を詳細に分析しその意味を考えていくと、双方の絵がともに、敵対勢力により京都を追われ近江に滞在していた第12代室町将軍足利義晴にとって意味のあるものと解釈される。つまり双方の絵では、近江の桑実寺や坂本が、絵の注文主である将軍がいるにふさわしい都のごとき場とみなせるように表されていると考えられるのである。絵巻の「詞書」(文字によって語られる話)や、屏風の絵が見せる表面の物語ではなく、絵がイメージならではの引用、含意、表現によって訴えようとしているものを探り、それを社会的政治的状況と絡めて分析することで、2つの絵の意味や機能を明らかにしえた。具体的には、例えば「桑実寺縁起絵巻」については、全7段分の絵のすべてについて、表現を詳細に見ながらそのイメージソースを探り、また類似する表現をもつ他の作品との表現のズレを探るなどした後、全段の絵を総合的に見通すことで、この絵巻の制作意図を浮かびあがらせた。この作業の過程で、下巻第1段の景観表現が桑実寺一帯の実際の景色の観察に基くことも明らかになり、絵巻では桑実寺一帯を、注文主である将軍が滞在するにふさわしい場として、称揚して描いていると考えることができた。この絵巻も一方の屏風も、描かれた内容や表現が、力の回復を望む将軍の願望の表象となっていると考えられるのである。また言説研究としては、室町時代の画派土佐派の絵の評価が明治以降概して低く語られるのは、誰のどのような語りから始まるのか、それはなぜか、またなぜその語りが継承されるのかを探った。具体的には、江戸時代の『本朝画史』において土佐派を「古風」で「女性」的なものと見る見方が狩野派によって創出され、時代を経てもそれが踏襲されたと考えた。本書においては、室町絵画を題材に、視覚表象や言説の産出が、自分が持ちたいと望む権力を可視化し言語化しそれを規範としていこうとする男性達の営みであることを明らかにした。さらに本書においては、それらの産出に際しジェンダーメタファーはどのように使われているのか、また、それらの絵画を女性は享受しえたのかという問題をも掘り下げ、ジェンダーの視点からの新しい美術史研究の可能性をも探った。


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●土佐光茂(明応5年(1496年)? - 没年不詳)

室町時代後期から戦国時代にかけての大和絵の土佐派の絵師。土佐光信の子。宮廷絵所預、左近将監、刑部大輔、位階は正五位下。実子に土佐光元、土佐派の跡を継いだ土佐光吉は次子とも弟子とも言われるが、「土佐家資料」(京都市立芸術大学像)には光茂の没年や享年、戒名、光元の戦死場所などが正しく伝えられていない点から、門人説が有力である。天文19年(1550年)5月初めに近江穴太で客死した足利義晴の寿像を描くために下向。この時の体験が、2年後の天文21年から弘治3年(1557年)の間に描かれた大徳寺塔頭瑞峯院の「堅田図」(東京国立博物館に断片2幅が近いとされる、概要は同博物館所蔵の模本で分かる)に生かされたと考えられる。また、近江に下向した際、六角氏の居城観音寺城本丸に「犬追物図」を描き、その模本が伝存する。


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●お寺のリーフレットには、司馬遼太郎の『街道をゆく』の一文が引用されている。

「かつての朽木氏の檀那寺で、むかしは近江における曹洞宗の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裡それに鐘楼といったものがおもな建造物であるにすぎない。」

「観光という自然破壊のエネルギーはこの朽木村までおよんでおらず、やってくる観光客もいない。」

しかし今では紅葉や老椿の名所として、訪れる人も少なくない。かつては京都の造庭家・重森三玲も毎年一度はこの庭を訪れており、小堀遠州も称讃したという名庭でありながら、作庭者の名前は伝わっていない。本堂と庫裏と鐘楼だけの質素な佇まいの寺であるが、四季を彩る絶景はまさに名庭にふさわしいものである。


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●近江八幡市安土町「桑実寺」

天台宗の寺院。山号は繖山(きぬがさやま)、本尊は薬師如来、開山は定恵。別名桑峰薬師。標高433メートルの繖山(観音寺山)の中腹にあり、西国三十三箇所観音霊場の32番札所である観音正寺へと登る途上に位置する。享禄4年(1531)将軍足利義晴は近江佐々木定頼を頼り、3年間当寺に住し、当寺正覚院を仮幕府とする。天文元年(1532)義晴は土佐光茂に「桑實寺縁起絵巻」(現重文)の製作を命じ、奉納する。往時、一山寺坊は2院16坊を数える。三門から本堂に向かって右に正寿院・千光坊・詮量坊・大乗坊・本教坊・善行坊・教専坊・徳乗坊・円照坊・成就坊があり、左に中ノ坊・真性坊・密蔵坊・宝泉坊・智教坊・実光坊・上善坊・大蔵坊があった。さらに別格の子院(東南隅)として正覚院(末寺40余ヶ寺を持つ)があった。現在も山門から本堂への石段の両側にはこれら坊舎の石組が見事に残る。永禄11年(1568)織田信長は近江を攻略、繖山上の観音寺城を攻め、六角佐々木は滅亡する。信長は足利義昭を桑實寺に向かえ、義昭は正覚院を陣所とする。


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■滋賀県大津市坂本「瑞応院庭園」

数ある坂本の里坊には、その多くに名園が造営されている。その中で唯一、重森三玲氏が作庭した枯山水庭園を有しているのが本院である。かなり狭い空間なのだが、所狭しと配された立石の数々は、菩薩群像のようでもあり、峨々たる岳峰のようにも見える。表現したい意欲が強烈に感じられ、これほどまでに造形に対する情熱を発露させた庭など、そうざらにあるものではない。本庭は比叡山の山田恵諦大僧正と重森三玲の出会いによるものである。昭和9年の大風水害の折日吉川の上流から大きな岩が転がり落ちてきた。大僧正はこの石を何とか庭石にと思っていたが、何せ大きな巌ゆえ動かすことが出来なかった。その後歳月が20年余り経った昭和31年に重森さんが作庭することになった。テーマは、源信僧都が日相観により観得した「阿弥陀聖衆25菩薩来迎図」とした。この構想に大僧正は大変喜ばれたそうである。