絵道KAIDOをゆく(11)
■北国街道(東近江路)
彦根市鳥居本と新潟県上越市高田とを結んでいた街道筋といわれ、かつて中山道から北陸路へと続く重要な交通路として栄えた。紅殻格子や虫籠窓などが往時の面影を伝えている。
■彦根市鳥居本町
現在の彦根市域の北東部にある。東海道本線はここより琵琶湖側を走っているが、国道8号線、東海道新幹線はこの鳥居本集落近くを通過している。国道の一本東に南北に走る1.5車線程度の道は旧中山道で、鳥居本は宿駅としての長い歴史がある。江戸方の番場宿、京方の高宮宿との間に設けられ、本陣1箇所・脇本陣2箇所があった。宿駅の北端近くで二度直角に曲る枡形がある以外は全て直線の街路で、宿場町としては町並の見通しがよい。枡形の位置に一際目立つ入母屋の旧家がある。平入りで桁行が非常に深く堂々とした屋根を従え、ランドマーク的な建物だ。これは中山道の道中名物の一つとして有名だった腹薬の「赤玉神教丸」を製造する有川家である。神教とはこの近くの多賀大社の教えによって作られたといういわれから付けられ、今でも製造されている。万治元(1658)年頃の創業というからもう350年にもなる老舗である。最盛期には製造職人や販売人などを合わせ80人もの従業員を抱え、余りに売れすぎたために類似品を商うものすら現れたという。明治天皇の北国巡幸の折に小休所となるなど、この宿一番の名家であった。さて、この有川家付近は当時上矢倉村と呼ばれ、南に向って鳥居本村・西法寺村・百々村の4ヶ村が連なり宿場を形成していて、総称して鳥居本宿と言われていた。中心であった鳥居本村の位置では平入り、中二階、袖壁と虫籠窓を有した典型的な町家建築がある程度固まって残っていた。中には屋根にむくりを持つ旧家も見られた。本陣・脇本陣もこの鳥居本村(通称「旧鳥」といわれたらしい)にあった。宿駅の南端に道標の石柱が残る。「右 彦根道 左 中山道京いせ」と刻まれる。彦根道は中山道と彦根城下を結び、さらに南に中山道より琵琶湖寄りを南下している。朝鮮通信使を通した道であるため朝鮮人街道などとも呼ばれた街道だ。今では旧中山道は生活道路で、車の通行もそれほど多くなく落ち着いた町並探訪が可能であった。
●有川家
有川家住宅は、中山道の鳥居本宿に所在し、江戸時代に妙薬として広く知られた「赤玉神教丸」を製造販売する薬店の本店である。土塀で囲われた敷地内には、主屋・書院・薬医門・粉挽蔵・文庫蔵が、また、粉挽蔵の北西には大蔵が建ち、いずれも建築時の形式を良く残している。有川家所蔵の文書等から、主屋は宝暦9年(1759)、粉挽蔵は宝暦12年(1762)、文庫蔵は寛政7年(1795)、書院は文化5年(1808)、薬医門は文化7年(1810)、大蔵は文化12年(1815)に建築されたことがわかる。主屋は良材を用いた規模の大きな建築で、一部に二階があり、屋根は町家としては珍しい入母屋造に破風を二重に取り付けた形式である。また、正面庇の腕木には繰形彫刻を施した持ち送りや獅子の彫刻を取り付けて装飾を施すなど、県内の一般の町家とは一線を画する建築である。主屋東側には、書院と薬医門がある。書院は、主屋同様に良材を用い、上段の間を設けたり複雑な屋根形式を用いるなど意匠を凝らした建築である。薬医門は、書院に引き続いて建築されたもので、雲をモチーフにした蟇股・懸魚が特徴である。書院・薬医門は、薬剤製造販売業により財をなした有川家の歴史の一端を示す建築である。有川家住宅は、主屋をはじめ、粉挽蔵・文庫蔵・大蔵等が建ち並び、保存状況が良好で、江戸時代後期から末期にかけての大規模な薬剤製造販売業の形態と変遷を具体的に知ることができる。また、各建物とも良材を用い、意匠を凝らした、質の高い建築である。さらに、往時の中山道の賑わいを今日に伝える建築としても貴重である。
●有川家庭園
有川家の住宅に付属する三方を建物で囲まれた庭園で、主屋の座敷前の池庭と東側の書院棟前の平庭で構成される。主屋座敷前は、余地の少ない空間に大きく深い池を中央に穿つ。水面が低く座敷から見下ろすことで、立体感を表現するとともに、背後に湖北の山々を望めるなど、優れた景をなす。なお、庭園北側外部を流れる水路の改修により、現状の池の水位は作庭当初より高くなっている。池は丁寧な石組で護岸され、特に、奥部から出島にかけてはチャートの大石を効果的に使用し、優れた意匠に仕上げている。また、池中には岩島を配するなど、庭全体が力強く、見応えのある構成となっている。さらに、出島から主屋側へは4メートル、西対岸へは2.8メートルの橋を架ける。この橋の奥には金比羅大権現の祠を祀る。なお、この橋は本来木橋であったが、現在はコンクリート製となっている。しかしながら、意匠と細工に優れ、違和感は少ない。当該庭園については、建物との関係から宝暦9年(1759)の主屋建築にあわせて池庭が計画され、宝暦12年(1762)の粉挽蔵の棟上げと同じ頃に完成したと考えられ、この年代観は石組などとも矛盾はない。その後、寛政7年(1795)の文庫蔵の建築に伴って池庭の一部が影響を受けたと考えられるが、基礎を切石積みとすることや、壁をなまこ壁にすることなど、文庫蔵自体を庭園の景の一部に取り込むような状況が見られる。さらに、文化5年(1808)には東側に書院棟が増築され、建物に囲まれるという庭園の基本構造が完成する。これに伴い池庭の北西部付近などにも若干手が加えられたようである。なお、書院棟の建築にあたっては、ここからは池泉部分を見せないようにする一方、書院北側の空閑地を経て、池庭奥部の景の一部が見通せるようになっている。このように公家や高僧などを迎えるために建築された本格的な書院建築の庭として、座敷の庭と区別化したものとも考えられ、座敷と書院では、一部を共有しつつも全く異なる景を見せる。なお、橋杭形手水鉢とその周辺の石組は、明治11年(1878)湯殿増築に伴うものであろう。以上のように、当該庭園は作庭者などは伝わっていないが、限られた空間内での工夫された作庭がみられ、中山道を代表する商家の庭園として相応しい趣のある景を有している。また、屋敷地や家屋の拡大・増築に伴い、庭にも手が加えられ、商家の発展過程を示す庭園としても貴重である。今回指定することにより、保存の策を講じ、末永く後世に伝え残すべき名庭である。
■彦根市河原町2丁目(旧袋町)「万屋」
小説「花の生涯」のひとつの舞台となった袋町は、紅殻格子など当時の風情を今も残している。江戸期には味噌などの商人や職人の街であったが、明治以降滋賀県で一番の歓楽街として発展した。明治4年貸座敷の公許に始まり昭和4年には、その数69件にも上ったという。この万屋もそのひとつで格の高い内装の造りなど当時の姿をよく残している。客室の開口を大きくするための2階の窓の工夫もされている。
■舟橋聖一「花の生涯」
「暮れかかるころの廓(くるわ)は一入(ひとしお)色めきたって見える」・・・冒頭の一節である。井伊直弼と国学者の長野主膳、そして村山たか女。幕末の動乱を生きた3人の男女の同志的結合と愛憎の物語は、芹川沿いのこの袋町から始まる。袋町が公認の遊郭となったのは明治4(1871)年4月だが、幕末にはすでに歓楽街の様相を呈していたのだろう。売防法の施行で置屋や茶屋はスナック、クラブ、小料理屋などに転業し、今も150軒余が軒を連ねる湖国きっての歓楽街である。細い袋小路の一部には旧遊郭をしのばせる風情も残され、夜になるとネオンの花が咲く。
■彦根市城町(旧魚屋町)
彦根市には、彦根三十五万石の往時を偲ばせる古い町並みが、比較的よく残っています。白壁に紅殻格子、虫篭窓、二階の低い建物が通りに面して続いています。本町二丁目から三丁目を当時上魚屋町、城町一丁目を下魚屋町と呼び、約400mの間に40軒近い魚屋が軒を並べていたといわれます。
本町二丁目には現在でも通りに面して井戸を残している家が数軒あります。城町にはこの界隈きっての大問屋納屋七(おおどんやなやしち)があり、重厚な構えの家が残っています。市指定文化財となっている家が数軒あります。






