絵道KAIDOをゆく(6)
■大津市堅田(かたた)
堅田1-2丁目、本堅田1-6丁目、今堅田1-3丁目から成るが、広義には真野や仰木などの周辺地区も含む(大津市編入以前の旧堅田町の範囲)。琵琶湖の西岸に面し、中世には水運の拠点として栄えた。現在も大津市北部の拠点であり、湖西線開業以降、住宅地としての発展が目覚ましい。湖畔には浮御堂と出島灯台があり、浮御堂の「堅田の落雁」は近江八景の一つとして名高い。
■堅田の落雁
雁が列をなして優雅に舞い降りる、湖に浮かぶ浮御堂が描かれた「堅田落雁」。正式名称を「海門山満月寺」という浮御堂は、平安後期に湖上の交通安全を祈願した恵心僧都が千体仏を安置したことに始まり、航行の目印とされました。
●落雁(らくがん)
米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子である。型に押す際に、餡や小豆、栗などを入れて一緒に押し固めるものもある。名は近江八景の「堅田の落雁」に因んでつけられたという説と、中国の軟落甘の「軟」が欠落したという説とがある。
■近江八景
近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ、風景評価の一つ。成立は、明応9年(1500)8月13日に近江守護六角高頼の招待で、近江に滞在した公卿の近衛政家が近江八景の和歌八首を詠んだことが始まりだと言われている。中国湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘八景図」(北宋時代成立)になぞらえて、琵琶湖の南部から八箇所の名所を選んだものである。八景としては日本でもっとも初期に選定された。江戸後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』は、彼の代表作の一つであり、かつ、近江八景の代表作である。名所絵揃物の大作である『保永堂版東海道五十三次』が成功を収めた後を受けて、天保5年(1834年)頃、版元・保永堂によって刊行された。
■海門山満月寺「浮御堂」
禅寺、京都紫野大徳寺に属する寺。始祖は源信僧都で西暦995年ごろ湖上の通航安全と衆生済度を発願し湖上に一宇を建立したとされています。浮御堂は江戸時代より昭和9年までは京都御所の桜町天皇から下賜された能舞台だったそうで、今の浮御堂は昭和12年に再建されたもので、堂内に阿弥陀仏一千体を安置してあります。
●茶室・玉鈎亭(ぎょくこうてい)
旧浮御堂の古材を一部に用いて建築された2席からなる茶室。茶室は東西に接する2席からなる茶室で、境内の南方に建っている。昭和9年の台風で倒壊した旧浮御堂の古材を天井などの一部に用いて建築されたもので、昭和63年に客殿南から現在地に移築された。
■大津市本堅田・居初氏庭園(いそめしていえん)「天然図画亭(てんねんずえてい)」
堅田の豪族三家の一つである居初氏の邸宅に伝わる茶庭で、その縁者である北村幽安とその師である茶人藤村庸軒により、天和元年(1681年)以前に築かれたとされる。庭園は書院と繋がる茶室「天然図画亭」の東側と北側に位置し、琵琶湖の浜辺である東側は石垣により境界を成す。天然図画亭からの眺望は琵琶湖と対岸の三上山を中心とする湖東の連山が借景となるよう、湖西岸の畔という立地を生かした設計がなされている。昭和56年(1981年)6月11日に国の名勝に指定された。庭園東側の石垣が琵琶湖に接しているので、サザンカ・モッコク・マキ・サツキなどの刈り込みの向こうに、雄大な湖に始まり、近江富士の三上山などの湖東の連山が一望のもとに見渡せます。まさに、天然の図画という名がふさわしい。
庭園は、茶室の東側と北側に広がる。茶室の方は入母屋造の趣ある建物で、茶の道具が客に見えないように、主室との間に低い結界が付けられ、主人の謙虚さがうかがえる構造になっている。





