絵道KAIDOをゆく(5)
■大津市穴太
読み仮名は、行政上の町名は「あのう」と表記し、駅名などは「あのお」と表記される。
●穴太衆(あのうしゅう)
日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団である。石工衆、石垣職人とも称す。「穴太」の歴史的仮名遣での読み仮名は「あなふ」である。穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。現代でも、坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊(さとぼう)」と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群は、彼らの組んだ石垣で囲まれ、町並みに特徴を与えている。
■大津市坂本
延暦寺および日吉大社の門前町として古くから栄えた。日吉大社参道の両側には比叡山の隠居した僧侶が住む里坊が並ぶ。また、穴太衆積み(あのうしゅうづみ、穴太積みとも)と呼ばれる石垣が街路を形成している。この町並みは地域的特色を顕著に示しているものとして、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。安土桃山時代には、明智光秀により坂本城が築城された。しかし、本能寺の変や続く山崎の戦い後に明智秀満が城に火を放った。
●「旧竹林院」
坂本の延暦寺里坊群の一つ、旧竹林院境内南西にある回遊式庭園で、面積3,300m²は里坊庭園の中で最大である。大宮川を引き込んで曲水とし、八王子山を借景として、滝組、築山、茶室、四阿などを配している。江戸時代初期に築造された里坊の書院前庭園であるが、明治時代初頭の廃仏毀釈の影響で竹林院は衰退して土地は個人の手に渡った。現在の庭園はこの時代に改修されたものであり、近代庭園として国の名勝に指定されている。庭園内には2種の茶室と四阿(あずまや)が巧みに配置され、一連で使用することによって茶事ができるよう工夫されています。なかでも、入母屋造りカヤ葺きの茶室(小間)=写真上は「天の用席」と呼ばれる珍しい間取り。二つの出入口を設け、主人の両脇に客人が並びます。この様式は、全国でも武者小路千家東京道場(東京都文京区、旧久米邸)以外、例がありません。かつて、各流の家元や茶匠のここを訪れ、茶事を催しています。
●東京都文京区千駄木「半床庵」
武者小路千家の東京出張所は、江戸城を築いた太田道灌(おおたどうかん)ゆかりの地、東京都文京区千駄木三丁目(通称道灌山)にあり、愈好斎の代より東日本における流儀活動の拠点となっています。その前身は旧久米邸自楽庵(じらくあん)の一画に設置されたもので、久田宗全(ひさだそうぜん)好みの名席「半床庵(はんしょうあん)」や愈好斎好みの広間「雲龍軒(うんりゅうけん)」、平成十二年【2000】に新築された茶室棟があります。久保田流茶家の第四世で半床庵、不及齋を号した久保田宗也の建立になるもので、建築年代は宝永2年(1705)頃から寛保4年(1744)の間のようです。この茶室は、別名を「天の川席」と称し、点前座を中央に、客座を相対座させています。点前座を天の川、相対座する客座を織女星、牽牛星に見立てたもので、都内に遺存する名席の一つとして学術的価値が高いものです。東京都の指定有形文化財になっています。





