ぱくっ(69) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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絵道KAIDOをゆく(3)



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■棟方志功

1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日、板画家。青森県出身。青雲の志は油彩画家になることで、それが有名な「わだばゴッホになる」の言葉として残っている。青森から上京して画技を習ったが、大正15年に発表された川上澄生の木版画『初夏の風』との出会いをきっかけに、版画制作に転向する。独得の流線が初夏の白緑に浮き出されて動きまわり、「かぜとなりたやはつなつの云々」の文字も絵の中に入っている。志功はしばらく同傾向の作品をつくりつづけたのちに、『大和し美し』で突然の変貌をとげる。きっかけのひとつは会津八一に出会ったことである。書と画が同じであるという天啓をここで得た。


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その直後に佐藤一英の新作長詩に会った。それが『大和し美し』である。ヤマトタケルを描いた物語詩。一英とは福士孝次郎の楽園詩社で出会った。この二つの天啓との逢着で、そのまま20枚の板画を一挙に彫るというのが志功なのである。絵の数よりも字が埋め尽くされたというべき壁画のような板画。そんなものが突如として国画会に出品されたのだから、物議をかもした。


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受付拒否騒ぎがおき、やがて熱気のような評判がたった。評判を決定的にしたのは、柳宗悦がこの作品を民芸館で買い上げたからだった。これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。


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■佐藤一英(さとういちえい)

明治32年(1899)に愛知県一宮市萩原町に生まれました。大正3年(1914)に愛知第一師範学校に入学しましたが、在学中に文学に熱中し校則に従わなかったことなどのために3年で退学処分となりました。その後、上京して神田の正則英語学校に入り、詩人を志すようになります。大正7年(1918)には早稲田大学英文科予科に入学し、吉田一穂、中山義秀、横光利一といった人々と面識を得ます。そして、吉田一穂らと共に「新詩論」に参加し、象徴派の詩人として活動を始めます。雑誌「サンエス」に詩「寂しき墓」他を発表することで、詩壇の注目を浴びますが、大正8年(1919)には、大学の学問に興味を失って退学をし、一旦帰郷してしまいます。そして、以後は詩一筋の人生を送りました。大正11年(1922)には第一詩集『晴天』を刊行し、福士幸次郎の「楽園詩社」の同人となりました。この年には小村たまをと結婚もしています。大正12年(1923)には『故園の莱(らい)』を「青騎士発行所」から上梓します。一英は、当時名古屋詩壇の中心をなしていた詩誌「青騎士」に加わり旺盛な活動を始めたのです。昭和3年(1928)には『古典詩集』を刊行し、「神秘的象徴主義」と評される独自の詩風を確立しました。そしてこの年から終戦時まで、再び東京に住むこととなりました。一英は、昭和10年(1935)ごろより詩の新しい韻律と定型を求める「聯詩学」の探究に入ります。この年には、『新韻律詩抄』を刊行し、翌年昭和11年(1936)には『大和し美し』を刊行しています。昭和14年(1939)には、その前年に発表した『空海頌』その他により第1回詩人懇話会賞を受賞しています。なお、「大和し美し」や「空海頌」などの詩作品は、棟方志功の版画によっても広く知られています。


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■須田剋太(すだこくた)

1906年5月1日 - 1990年7月14日、埼玉県生。当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴。司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を担当、また取材旅行にも同行した。道元禅の世界を愛した。


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