ぱくっ(55) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大和棟(2)


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最近になって「茶室」に興味を抱き、いろいろ調べたりしたものですから、吉村家を訪問して、これまで何気なく眺めていた日本家屋の素晴らしさを再発見することになりました。


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■大和棟(やまとむね)又は高塀造(たかへいづくり)

18世紀後半から明治初年にかけて、奈良盆地や大阪平野で流行した典型的な農家型民家の形態で、麦藁葺きの大屋根下部に、4間取りの座敷と通り庭、瓦葺きの下屋に縁側、瓦葺きの落棟にかまや、くどのあった上に一段高く煙出しの屋根が設けられています。切妻の草葺と屋根瓦が組み合わせられており、洗練された切妻の白い漆喰壁と屋根の対象性が美しいのが特徴です。


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■大阪府羽曳野市「吉村家(吉村邸)」〒583-0881大阪府羽曳野市島泉5-3-5/072-954-8022

吉村家はかつて、周辺十八ヶ村を管轄する大庄屋を務めた家柄である。主屋は大坂夏の陣で焼失後、間もなく再建された歴史ある家屋である。その後幾度か増改築が行われ、現在の姿となったのは寛政年間の頃である。屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されている。これを高塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから大和棟造りともいう。上層農家の家格を示すものである。戦前の1937年(昭和12年)8月25日に、主屋が国の重要文化財に指定された(当時は国宝と称されていた)。民家としては日本で初めてのことであった。その後1965年(昭和40年)5月29日に表門と土蔵、附(つけたり)指定として土塀と中門が、1979年(昭和54年)2月3日に宅地、山林、溜池、附指定として古図2枚がそれぞれ追加指定された。


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●主屋

建築年代:江戸時代前期(17世紀前半建築、18世紀改築)

桁行41.2m、梁間11.4m、切妻造(大和棟造り片入母屋)、茅葺及び本瓦葺、四面庇付、本瓦、こけら葺及び桟瓦葺、玄関附属、こけら葺

●表門

建築年代:江戸時代後期(寛政10年(1798年))

長屋門、桁行18.0m、梁間4.0m、入母屋造、茅葺

●土蔵

建築年代:江戸時代後期(18世紀前半)

土蔵造、桁行11.9m、梁間4.0m、切妻造、西面庇及び制札場附属、本瓦葺


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特に「大和棟」の屋根の美しさが目に焼きついた・・・

■吉村家の大和棟は、主屋は切り妻造で中央部を急な屋根勾配の茅葺きとし、両妻に瓦を乗せる造りの民家。吉村家は、江戸時代は丹北、八上の2郡38ヶ村の大庄屋で、桃山時代の書院造りの様式をとどめている。白壁の柱、格子、など大和棟の端正な美しさをもっている。

■天正19年(1591年)の古文書によれば、当家は当時嶋泉村の政所(後の庄屋)であった。江戸中期以降は近在18ヶ村の大庄屋を併せて勤めている。現在は当時の表構え、長屋門・土蔵及び土塀と主屋を残すのみであるが、江戸初期の格式ある農家の代表的遺構として、主屋が民家では最初の国宝指定(昭和12年)をうけ、現在の文化財保護法制定(昭和25年)と同時に重要文化財となった。


■戦前、国宝(現在の重文)に指定されていたものは、大阪の吉村邸(羽曳野市所在の旧庄屋の屋敷)と二条陣屋(京都市)だけでした。


■元和の役の直後に建築された桃山期の書院造の建築様式を一部に留める代表的な大庄屋の民家で、昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されました。吉村家の祖先は鎌倉時代初期、当地付近に土着した 佐々木高綱の子孫と伝えられ、代々丹比野の有力名主で南北朝~戦国時代にかけては丹下一族と言われる土豪でありました。天正年間(1573~1592) 以後は姓を「吉村」と改め江戸時代初期には庄屋兼代官、正徳年間(1711~1716) 以後は丹北・八上の両郡内の38ヶ村の大庄屋をつとめてきた名家であり邸宅も独特の風格をもっています。


■吉村家は、『平家物語』などでその活躍が描かれた、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・佐々木高綱(ささきたかつな)の子孫である。住宅は元和元年(1615)の大坂夏の陣で焼失したが、直後に再建。現在の主屋はこの時の建築のものだが、後表門・土蔵など附属の建築物と1600坪の敷地、背後の山林はその後の増改築などを経て、寛政年間(1789~1801)頃に、ほぼ現在の姿となった。


■日本最古の金網?(亀甲金網) 日本でいつ頃から造られたかは不明であるが、金網が使用されて残存しているものとしては、吉村邸(重要文化財)の納屋の窓に銅製の亀甲金網が使われ、これが最も古いのではないかとされている。その他、日本の美術工芸史上、天下太平が浸透した江戸期に本来の機能性から飛躍した武士の甲冑に亀甲金網の見られたりと、約300年前位より金網の存在が確認できる。当時としては銅(金、銀も含め)を中心とした柔らかい金属を槌などで叩きのばして線をつくり、手製で編んでいたようだ。


■北花田を通って我堂、布忍へと入り松原の中心をまっすぐに東へ向かった長尾街道、一津屋の道標を通り恵我の図書館を左手に見て東除川に架かる高鷲の橋を渡ると羽曳野市へ入り松原市域が終わります。歩いて散策すると、一津屋の道標手前あたりから北側へ向かって道が曲がり、やがてすぐに元通りのまっすぐな道が高鷲の橋へ向かって修正されている事に気づく。この曲がりは『東へ一里、二里と、北へ一条、二条と引かれた条里制の基準線として堺から羽曳野へ千年以上の歴史をもつて今の時代まで変遷することなく整然と伸びている』という説に背きますが、これは明治天皇が堺にある水族館の見学後に長尾街道をお通りになり島泉の吉村邸へお立ち寄りになる事が決定された時に、道を整備したことによって現在の曲がり道となったらしく、整備まではまっすぐな道であったそうです。慶応生まれの語り手が学校を出て織り子の奉公に出たが、機まで足が届かず下働きをした頃の話だと語っているので明治9~10年頃の事と思われます。


■奈良時代に仏教文化の中心地帯となり、難波宮から大和の飛鳥京を結ぶ竹内街道がつくられ、西琳寺(古市寺)、善正寺をはじめ次々と寺院がつくられた。長尾街道はその北側を竹内街道に平行して東西に走る。島泉には、この地方の豪族佐々木高綱の子孫で、江戸時代中期以降大庄屋となった豪農の吉村家の住宅があり、桃山時代の書院造様式を残す民家で日本初の重要文化財に指定されている。


■長尾街道

長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分かれた、難波京・住吉津と飛鳥・平城京を結ぶ重要な経路となった。河内国と大和国の間の山越えルートは、明治以前は国分村六軒(柏原市国分本町7丁目付近)から現在の近鉄関屋駅・二上駅の北側を通った「関屋越え」のルートであったが、明治13年(1880年)に田尻峠越えのルートが開削された。さらに近辺での付け替えにより現在の国道165号の道のりとなった。


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調べれば調べるほど・・・自分の身近に大切なものが多くあった。「大和棟」をキーワードにして、再考の旅を続けよう。