茶室考(1)
南天の床柱で金閣寺・夕佳亭を調べたわけですが、やはり銀閣寺も・・・
国宝、慈照寺・東求堂「同仁斎」。茶室の源流であり、今日言われる「和室」のはじまりとなった空間です。通称銀閣寺の名で親しまれている慈照寺は、室町末期に、足利義政の別荘として建てられました。義政は応仁の乱という長い戦乱に嫌気がさして、将軍の地位を息子に譲り、京都の東の端で静かに書画や茶の湯などの趣味を深めていく暮らしを求めたのです。応仁の乱は日本の歴史を二分するような大きな戦乱でしたが、義政によって始められたこの東山文化を発端として、日本の文化は新しい局面を開いていくことになります。「同仁斎」は、そんな義政が多くの時間を過ごした書斎。書院造りと呼ばれるこの部屋には、明かりとりの障子の手前に、書き物をする張台がしつらえられています。障子を開けて見る庭の風景は一幅の掛け軸のよう。張台の脇の違い棚には、書籍や道具の類が置かれていました。ひさしが長く、深い陰翳を宿す東求堂に、障子ごしの光が差し込む風情、そして障子の格子や畳の縁などで生み出されるシンプルな構成は、まぎれもなく日本の空間のひとつの原形。今日、同仁斎が国宝に指定されている理由もここにあります。この同仁斎で義政は茶を味わい、ひとり静かに心を遊ばせたのでしょう。義政に茶で交わったとされる侘び茶の開祖、珠光もおそらくはこの部屋を訪れたはずです。茶の湯は、室町末期から桃山時代にかけて確立されていきました。それは、大陸文化の影響を離れ、侘びや簡素さに日本独自の価値を見出す試みでした。茶祖、珠光は、豪華さや「唐物」を尊ぶ舶来志向を捨てて、冷え枯れたものの風情、すなわち「侘び」に美を見出しました。さらに武野紹鷗は「日本風」すなわち簡素な造形に複雑な人間の内面性を託すものの見方を探求します。やがて千利休によって、茶の空間や道具・作法はひとつの極まりへと導かれていきます。簡素さと沈黙。シンプルだからこそ、そこに何かを見ようとするイメージを招き入れることができる。利休はものの見方の多様性のなかに造形やコミュニケーションの無辺の可能性を見立てていきました。このような美意識の系譜は古田織部、小堀遠州など、後の時代の才能たちに引き継がれ、茶道とともに日常の道具に、そして「桂離宮」のような建築空間に息づいています。
■初期の草庵風茶室は四畳半の広さであったと考えられている。東山の慈照寺にある東求堂同仁斎(1486年(文明18年))は四畳半の書斎で、草庵風茶室の源流とされる。また、村田珠光は十八畳の和室を四分して四畳半の茶室を造ったと伝えられている。今日でも、一般には四畳半以下の茶室を草庵風茶室と称する。
千利休の孫、元伯宗旦には四人の男子がありましたが、長男閑翁宗拙は故あって家を出たため、次男の一翁宗守、三男の江岑宗左、四男の仙叟宗室がそれぞれ、官休庵、不審菴、今日庵として初祖利休以来の道統を継ぎました。不審菴は表千家、今日庵は裏千家、官休庵はその所在地名から武者小路千家と通称され、現在に至ります。武者小路千家の流祖、一翁宗守は兄宗拙と共に宗旦先妻の子であり、一時は兄同様父の下より離れ、吉岡甚右衛門と名乗り塗師を業としました。やがて千家の兄弟達の勧めでその技を初代中村宗哲に譲り、千家に復し、現在の地に茶室「官休庵」を建て、茶人としての道を歩み始めました。一翁ははじめ陽明家(近衞家)に、そののち讃岐高松藩の茶道指南の地位にもあり、広くその名を知られる活躍を続けました。晩年は武者小路の現在地に悠々自適、茶三昧の生活を送ったと伝えられます。武者小路千家では、一翁以降も歴代家元は讃岐高松藩の茶道指南をつとめ、一指斎の代にまで及びました。
京都御所が室町時代初期に現在の地に移されて以来、「武者小路通」は京都御所警護にあたる侍達が住したことにより、この名で呼ばれてきました。その昔は古今伝授の大家と仰がれた三条西実隆の屋敷があったと伝えられています。武者小路千家は、この同家南側に面する道路、武者小路通の西寄りに通用門があり、東寄りに弘道庵前車廻しと表玄関があります。表玄関からは弘道庵寄付にすぐに入ることになり、通用門からの来客は内玄関から寄付をへて、半宝庵、環翠園、行舟亭、祖堂、官休庵など、それぞれの茶室へ通ります。露地は南面の西から東へ、さらに北へと奥深く細長く続きます。その南北に伸びる露地を挟むような形で、弘道庵が渡り廊下をへて東隣にあり、さらに露地北には二階建ての茶室、起風軒があります。露地の南東隅には外腰掛並びに下腹雪隠、北端には南向きに内腰掛が設けられています。
利休の曾孫で、武者小路千家の流租一翁の創建になる茶室官休庵は、武者小路千家の代名詞ともなっています。その長い歴史の中で安永、天明、嘉永の火災により幾度も焼失していますが、その都度、歴代当主により復興されました。現在の官休庵は大正十五年【1926】、愈好斎の再建によるものです。入母屋造り柿葺きの出庇がある一畳台目の茶室で、道具畳と客畳との間に幅約15cmの半板が敷かれ、主客に余裕を持たせるよう工夫がされています。茶道口から入ると半畳分の板畳が踏み込みとなり、炉は向切り、台目の下座床がつき、杉柾柱を八角になぐって磨いた床柱に、床框には桧磨丸太が使われています。床の向かい側に下地窓、躙口の上に連子窓、点前座には風炉先窓が設けられ、高齢に達した者でも使いやすい水屋道庫が備わっています。道庫には二枚の杉ノネ板の戸をはめ込み、内側に竹簀の子の流しと棚を拵えています。天井は白竹竿緑の蒲天井、踏込板畳の上は掛込天井と変化を持たせています。前庭に置かれた鎌倉時代の四方仏の蹲踞も一翁遺愛のものです。
「官休庵」の名は、流祖一翁が父宗旦と相談して茶室を造った時に、父からつけて貰った名と伝えられています。その意味は判然としませんが、安永三年(1774)、一翁の百年忌の時に大徳寺第三百九十世眞巌宗乗和尚により書かれた頌には、「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟」(茶に専念するために官〔茶道指南〕を辞めたのであろう)と解釈されています。